「一等星/月落ち花」
首つり川の近くに、おかしな店が現れるんだって。
しとねの名残の最中、途切れた会話を繋ぐように女が言った。「へぇ?」慰みの煙管(きせる)を離して、結城(ゆうき)は興味深くこうべを振った。
「首つり川って、桜川(さくらがわ)のことか?八柳橋(やぎゅうばし)を渡った向こう側にある…ほら、ここ何年も、人がつぎつぎ首を吊って死ぬって有名な」
「そうそう」
女が楽しそうにうなずくのを見て、結城は咄嗟に顎をさすった。
桜川は結城の長屋(ながや。水平に連なった平屋の集合住宅。借家)から半時(約1時間)ほど離れた川で、桜並木が美しいことで有名だった。
桜が開けば屋台が並び、煮豆だの、大福だの、色々なものが列をなして売られていた。
花見が目当てか団子が目当か。分からなくなるほど、春のいっときに人が溢れる、大層賑やかな川であった。
―――桜の下で、誰かが首を吊るまでは。
美しい風貌に誘われたのか、誰かが桜で首を吊ったらしい。それから、たびたびあそこで人がぶらさがったと聞いた。噂が人を呼んだのだろう。
当然、悪い噂は広がれば広がるほど、健常なひとの足先を遠のかせる。噂と同じ勢いで店と人が消え、客のいなくなった川は、やがて首吊り川と呼ばれるようになり、ひっそりおとなしい川になった。実際、結城も噂の後に川を冷やかしてみたが、たしかに、不気味なほど静まり返っていた。そんな曰くつきの場所に、いったい何の店を出す奴がいるのか。
「なんの店が出ているんだ?」瞬く間に興味が湧いて、寝そべっていた身体を起こして女に近寄った。その拍子に、結城の袂(たもと)がはらりと捲れる。はだけた布地を嬉しそうに直しながら、
「あのね」女は密やかな声で言った。
「四文屋(しもんや。値段の安い飲食店のこと。四文銭、現代で言うと80円~のお金で、つまみがひとつずつ買えるリーズナブルなお店)なんだって」
「はあ?あんなところで四文屋が?」
四文屋が流行ってしばらく経つが、どいつも人通りの多い場所で店を出すのが普通だ。うさんくさい辻占(つじうらない。目の前を通った人を占うこと。または占い屋)の婆ならともかく、人が首を吊ったような場所で食事など売れるものか。
「それがね、わりと来るらしいのよ」
結城の疑いを察した女が、ころころ笑って事実を述べた。後押しされても信じられず、「ほんとかー?」つい、疑り深い声を出してしまった。それでも、女の態度は相変わらず明るい。
…あんな場所でくいものが売れるだと?どうも信じがたい。
「なんでもね、噂じゃ、化け物四文屋だなんて、呼ばれているそうよ」
…化け物四文屋だと?
まさか物の怪の類が店を出しているのか?化け物の肉でも煮つければ、人様では味わえぬものになるのか?それが人を引き寄せ惑わせるのか?
考えれば考える程…面白くなってきてしまった。元来、好奇心の多い結城はこういった話に滅法弱かった。それを知っていて、女も話を聞かせてくれたのだろう。くすくす笑って、目を輝かせ始めた結城を愛おしそうに眺めている。
「なあ。その店いつごろにやってるんだ?」
女の肩を抱きながら野次馬を起こした。耳に口を寄せると、女はくすぐったそうに捩れてから、指を折って時刻を示した。折られた指は、両手で六つ。暮れの六つ(午後十八時時頃)だ。…逢魔が時(おうまがとき。昼と夜が移り変わる時刻。魔物に遭遇すると信じられていた)か。なるほど、化け物らしい時刻じゃないか。
いてもたってもいられず、仕事の準備を口実にいそいそ帰り支度を始めた。女も、寝ている旦那の元に戻るため、ほぐれた髪や着物をてぎわよく整え始める。お互い準備を終えると、どちらともなく抱き合い、営みの終わりを楽しんだ。
「ゆうさん。次はいつ会える?」
「いつでも会えるさ」
「ふふ。そればっかり」
惜しそうな口をそっと吸ってから、結城は出会い茶屋(であいちゃや。キャバクラやラブホテルのようなもの)を後にした。
*
夜が明け朝を通り、昼が過ぎて夕刻を迎えると、仕事を引き上げ長屋を出発した。歩くこと小半刻。辿り着いた桜川。もとい首つり川では、春中もあって五分咲きの花が見ごろを待ち構えている所だった。瑞々しいその姿はなかなかの壮観ぶりで、ひゅう。と口笛を吹きながら、川縁をゆっくりと歩いた。
久しぶりに見たが、相変わらず見事な桜並木だ。これを見ただけでも、充分に来て良かったと思える。
あらかた景色を楽しんでから、結城は本命である「化け物四文屋」を探した。陽が暮れ、暗く染まり始めた川縁でそれらしき姿がないか、つぶさに見渡す。ちょうど、六つの鐘が遠くから鳴り響いた頃。…ふと、結城の目に灯りがともった。水面から浮かぶように、そっと現れた灯りにぎょっとする。
突如現れた灯りの正体は優美な大提灯だった。桜がなびく様を背負って、ゆらゆら微笑むように揺れている。掲げているのは、何処にでもある小さな屋台だった。奥には店主が控えているらしく、手元を忙しなく動かしては、客が来るのを待ち構えていた。
…これが化け物四文屋か?見たところ、噂ほどの珍しさはどこにも見あたらなかった。
「いらっしゃい」
店の前で往生していると、凛とした声に迎えられた。小さな暖簾(のれん)の向こうで、店主の口元がゆったり動いている。
「食べていきますか?」続く口上はおきまりの言葉だった。しかし。
「…おい店主。どうしたその顔は」
とうとうおかしな部分を見つけて、結城は訝し気な声を上げた。店主の顔と頭が薄い布で覆われていたのだ。客側からでは、店主の顔が伺いにくい。
「はい」店主が静かに応えた。涼しい声は男のものだ。
「めしが不味くなる顔立ちなもので。旦那様がたのご不興を買わぬよう、なるべく隠しているのですよ。すみませんね」
結城とて、何度か醜い顔は拝んだ事がある。だが、顔を覆うほど醜い顔というのは想像がつかない。
「…ふーん?」
それは可哀想にと、同情するより先に違和感を持った。自らを醜いと言った男の、唯一見える口元が整っていたからだ。たくさんの女を見てきたが、その中でも随一(ずいいち)だ。
随分矛盾した口元にふつふつ興味が沸いてきた。とりあえず酒を一合頼んで、四文屋らしく、つまみは何が出せるのかと尋ねた。店主が、するめにニシン、豆腐におでんなど、ありふれた品目を口々に並べたので「そうかい。それじゃあするめとニシンを頼むよ」と注文すれば、店主はすぐ、色のよいするめとニシンを器に盛りつけ、差し出してきた。
「美味そうだな。いただくよ」
素直に褒めてからつまみに箸(はし)をつけ、口に運ぶ。そして驚いた。得も言えぬ、今まで食ったどのするめよりも美味かったのだ。急いでニシンも口に入れると、これも滅法美味かった。
我を忘れる味に夢中で箸を動かし、うまい、うまいと舌鼓(したづつみ)を打っていると、あっという間にものが消えてしまった。物足りず、今度は別の物を頼み、忘れていた酒をついでに飲むと、なかなか愉快な気分になった。
食事を楽しむ結城の前で、「お客さん、見ない顔ですね」「どちらから?ああ、鐘町ですか」「仕事は?小間物屋ですか。儲かりますか?」男は適当な世間話も織り込んできた。話し方が上手いので、つい気が逸れ目的を忘れかけたが、暫くすると前を眺める余裕が戻り、結城はちらりと相手の手元に目を配った。
つまみを転がすその手は、あかぎれてはいるが形の良いものだった。そこから繋げて、腕、身体、喉に昇り、最後に再び口元を見る。色の良い唇の上には、高い鼻筋がすっと佇んでいた。こんなところも涼やかで、色気すら感じた。
…あの奥が大層気になる。どうして目元まで見えないのだろうか。ええい。布が邪魔だ。わしづかんで、はぎとってやりたい。相手は男だというのに、まるで据え膳を置かれた気分だ。
「…なあ、店主。これだけ美味いめしだ。あんたの顔を見ただけで不味くなるわけがないよ。だからさ、その布をとってくれないか?あんたの口元が別嬪(べっぴん)だから、奥が気になってしかたがねぇや」
すぐにでも手をかけたい衝動を押さえ、男に交渉した。相手は動揺を見せたが、すぐ。「…勘弁してください」ふっと微笑み、首を振った。
「出会い茶屋じゃあるまいし。冗談はよしてくださいな」
「なんだ?払えばいいのか?いいぞ、とっておけよ」
「うちは四文屋ですよ。つまみと酒の数だけ四文払って貰えば充分です」
「もったいぶるなよ、乗せてやるから」
「…しつこいですよ」
「おい。店主。おい」
食い下がっていると、とうとう相手をされなくなった。面倒な客だと思われたらしい。銭だけおいてとっとと失せろと言わんばかりだ。しかし、結城はどうしても男の顔が見たかった。見なければ帰れない、眠れもしないだろう。
「やれやれ。しかたがないな」無礼は承知で、一手をしかける事にした。
諦めたふりをして懐(ふところ)を探り、愛用の煙管が入った袋を取り出してつきつけると、男が無言で火種を取り出しこちらに向かった。
食後の一服はお帰りの合図だ。これで退散するだろうと気をゆるめ、相手が火種に気を取られた隙に、手元の煙管を半周させ、吸い口を男の布にもぐらせた。
「な……っ!」
驚き身を引く勢いを利用して、煙管を空にふるった。結城のもくろみ通り、布は男から離れ、はらりと剥がれて地面に落ちた。
しめしめ。これでご尊顔を拝めるぞ。笑いににやけた口を―――次の瞬間、唖然(あぜん)と開いた。
「…桜の精か」
店主は、珊瑚の瞳、桜色の髪に雪の肌持つ大層美しい男だった。化け物かと思いきや桜の精が現れるとは、おかしな期待外れだ。しかし、相手が人間だという事をすぐに思い知らされた。「なにしやがる!」体勢をなおした店主に思い切り殴られたのだ。
「ぎゃあ!」不意打ちを食らって地面に落ち、頭と体をしたたかに打ち付ける。痛みが頭のてっぺんにまでかけのぼった。
「この野暮天(やぼてん)!二度とくるな!」
不名誉な罵りをひとつ残し、店主は屋台と結城を置いて去っていってしまった。寝転んで、その姿を茫然と眺めたあと…どっと笑いがこみあげる。
野暮天か!そんな事を言われたのは産まれて初めてだ。これはこれは愉快だ!
結城は声高らかに笑い続けた。犬の鳴き声も、鐘の音もかきけす大きな笑い声だった。
「あっはっはっは!そう言うなよ店主、またくるよ!あっはっは!」
たまらない気持ちだった。今起きたこと全てが、結城の好奇心を存分にゆさぶり愉快を起こした。殴られたことなど、気にもならないほどのすがすがしさであった。
*
仕事を適当に切り上げ、夕刻せまる赤い空の下、うすきみ竹林(ちくりん)の傍を歩いた。この竹藪(たけやぶ)がなぜ「うすきみ」とあだ名されているかといえば、「うすぐらくて気味が悪い」からだそうだ。
しかし、結城にはすっかり、気味がよくも悪くもない、ただの竹藪にしか見えなくなってしまっていた。この先に友人が住んでいて、彼を尋ねるたび厭というほど藪を眺めるからだ。気味の悪さも、つきつめれば物珍しさから起きるのだと、この竹藪を見るとよく思う。
竹藪を抜けると、綺麗に手入れされた一軒家と庭が見えてくる。軒先には「貸本」「診療所」と書かれた看板がふたつぶら下がっている。
「武流(たける)ー。武流いるかー?」
戸を叩いて中の人を呼ぶと、「はいはい、どうしたの結城」顔もみない内に、相手が結城の名を当て姿を現した。変哲の無い顔と格好をした男が、にこにこ笑って結城を出迎える。
この男は、いろいろあって町の離れに貸本と医者(医者をする気はなかったらしいのだが、本に囲まれている内に知識が増え、いつのまにかそうなっていたとのこと)を兼業し始めた、奇特だが大事な友人だ。
「本を貸してくれよ」と頼めば、二つ返事で中に入れてくれた。
結城は女遊びも他の遊びも好きだが、本を読む事も大層好きだった。買うのはもったいない(昔、本はとても高価なものだったので、お金を払って借りるのが普通だった)ので、もっぱら、友人のところでよく本を貸して貰っていた。
土間に入ってすぐ、適当な場所に腰かけ煙管を取り出すと、友人が行灯(あんどん。照明器具。木や竹の枠に紙をはり、中に油皿を置いて火を灯したもの)から火をとり結城の煙管に灯してくれた。
「煙管を吸うってことは、本だけが目当てじゃないのかな?」
しばらく居座る気でいることを早速見抜かれてしまった。苦笑しつつ「まあな」と同意する。
「聞いてくれよ。面白いことがあったんだ」
「いいよ。聞かせて」
ころころ笑って、のんびり茶の準備を始める友人の背を眺めながら、先日、千早に出会った事を話し始めた。
馴染みの女房から桜川に出る化け物四文屋の噂を聞きつけたこと。興味が湧いて、実際に会いに行ってみたこと。噂の四文屋は存在しており、店主は噂通りの異質な出で立ちであったこと。そこで食った料理がどれも美味かったこと。
極め付けに、店主の顔が桜の精と間違うほどの美貌だった事。ちょいとからかい過ぎて、野暮天と罵られたこと。
言いたくて堪らなかった一連の話を終え、貰った茶で喉の渇きを湿らせていると、興味深く聞いていた武流が「まるで戯作(げさく、小説のこと)のようだね」と深く息をついた。
「だろう?」得意げに頷いて見せる。
「桜川に変わった店が出る。っていう噂は僕も耳にした事があったけれど、まさかそんな風になっていたなんて」
「俺も、こんな面白い事になるとは思わなかったよ。どうだ武流。次の戯作に使うか?」
友人は貸本を生業にしながら、自らも戯作者(げさくしゃ。小説家のこと)として話を書き続けている。
「これは面白い話だろう?」冗談をしかけると、友人もまた、これを冗談と受け取り、くすりと笑った。
「そうだね。折角だし考えさせてもらうよ」
「出来たら一番に読ませてくれよ。お前の戯作は面白いから好きなんだ」
「それは嬉しいね。分かった、約束するよ。書けたらすぐ、君に読んでもらうね」
丁度干した器を覗いて、友人が茶のおかわりを持ってくるよと言ったが、「いいよ」と押しとどめた。
煙管の火を消して、目当ての本を取って貰うと戸口に目をくばった。言いたい事を話をしたらさっさと帰る予定だったので、ここ等が引き上げ時だろう。随分すっきりした胸元を摩って立ち上がる。
友人は結城と外まで連れそい、竹林の向こうまで見送ってくれた。情の深い友人にありがたく手をふり、「またくるよ」と言って、結城は貸本屋兼診療所を後にした。
*
結城はきまぐれな小間物屋(こまものや。雑貨屋のようなもの)をやっていた。
気が向いた時に方々の長屋を訪れ、主に簪(かんざし)や櫛(くし)、白粉(おしろい)や紅(べに)、要望があれば扇(おうぎ)の地紙(じがみ)などを売りさばく。いくつかは伝手から仕入れ、いくつかは自分の手で作り、これでなかなか評判があった。
今日も適当な場所で、作りに作った自信作の簪を売りさばこうと、昼八つ(午後14時)から店を出した。
「かーんざしぃ、おしろいぃ、くしにおうぎぃ、いらんかねー。べっぴんさんしかうらねぇよー。べっぴんさんはよっといでー」
結城の声に誘われて、表店の女将から長屋の女房、若い娘まで、こぞって女がむらがりはじめる。
「ちょっと!結城!」
娘のなかでひとりだけ、色気無い声を出す者がいた。足早に近寄り、他の女をかきわけてきたのは、流行りの柄を着こなした鐘町酒屋の一人娘。
「明里(あかり)か。どうした急に」
のんびり尋ねると、娘は呆れたように肩を傾げた。
「どうしたじゃないわよ。頼んでいた簪はどうしたの?前に、直してもらえるように頼んでいたでしょう?明日、お父さんが見合いの相手を連れてくるっていうから、そろそろ返して欲しいんだけど」
ああと手を打つ。そういえば、気に入っている簪を直して欲しいと頼まれてから、今日まで預かったままだ。
「悪い悪い。もう直ってるよ」
「そう?じゃあ返してちょうだい」
「分かった分かった」
言われるまま、背負い箪笥(たんす、小間物を持ち歩く為の、背負える箪笥)を下ろして中を探るが…途中でひょいと首を傾げた。
おかしい。どこにも見当たらないぞ?
簪は大体、此処に全部仕舞ってある筈なんだが。 …忘れてきたのか? 仕方が無い。長屋の方を探してみるか。
「すまん、置いて来たみたいだ。後でお前の店に届けにいくから、俺が来るまで戸をあけておいてくれ」
「…分かったわ。着物と合わせたいから、早くしてちょうだいね」
無いものはしょうがないと、明里は頷き足早に去っていった。それを見届けてから、ようやく仕事に精を出し始めた。
結城が若い娘と話し込んでいるのを眺めていた女たちは、結城の手が空いたと知れると、再び寄り集まってあれこれ小間物を眺め始めた。
ひとつの場所で商いが済むと、次は別の場所で声を掛け始める。昼は一番繁盛する時間で、それが過ぎるとだんだん人気(ひとけ)がなくなってくる。もう一刻(いっとき)過ぎれば、あとは夜を期待する女房たちしか残らなくなった。
いつもはそちらのお相手も務めるところだが、今日はすべての誘いを断って、頃合いに引き上げてきた。
娘と約束した手前、女にうつつは抜かさず、きちんと簪を届けてやる気でいた。
早速長屋に戻って、思い当たる場所をいくつかひっくり返したが―――はて。今度こそ盛大に首を傾げる。
「あれ?あれ?…どこいっちまったんだ?」
ない。ないぞ。箪笥を開けてもない。板敷の上にもない。まさかと思い釜を開けたがもちろんない。
あの簪は何処にやってしまったのだ?
夕暮れの朱色を浴びながら、うんうん考え込む。
…そういえば、なにかのついでに渡してやれるよう、煙管入れと一緒にしまい込んでいたような。
大事な手がかりを思い出し、すぐに煙管入れを取り出した。しかし、巾着の中には煙管が入っているのみで、肝心のものは見当たらなかった。
これはいよいよ、失せ者の行方が分からなくなってしまった…。
諦めかけていたその時。「ゆうさん、ゆうさん」戸口の向こうで女の声がした。何事だと戸を開けば、表店に店を構える粉物屋の女将が長屋の前で手を振っていた。
化粧の買い足しに、結城の方から店に出向くことは多いが、女将が直接訪ねてくるのは珍しいことだった。
「どうしたんだ女将。俺になにかようか?」
なにやらそわそわとして、気配が忙しない女将にいっそう近づくと、相手が「それがね…」と言って、自分の後ろを振り返った。
「…ちょっと風変わりなお客がね。ゆうさんを探しているみたいなんだよ」
「風変わり?」つられて首を曲げると。
「……あ!おまえ!」
女将が「風変り」と言った客は、動じず、静かに立ち尽くしていた。女将は結城と「客」の顔とを見比べた後、役目は済んだとばかりに去っていった。その耳が赤くなっている事に今更気づく。
「…四文屋の店主、どうしてここに」
正体を呟く間、男は結城の元へ、真っ直ぐ足を寄越してきた。今日は布を被っておらず、涼し気な美貌がお天道様の下にさらされていた。
また行ってやろう。からかってやろうとは思っていたが、まさかこちらの根倉で出会うとは思いも寄らず…茫然としてしまった結城の前で、男は唐突に何かを突きつけてきた。
「これを落としただろう。届けにきたんだ」
差し出された男の手には、結城が延々と探していた簪が握られていた。
「…あ!」思わず度声を上げる。
「ああ、そうか!煙管の袋に入れて…あの時落としたのか!」
成程。通りで探してもさがしても、一向に見つからない訳だ。
「ああ。良かった。これは人からの借り物だったんだよ…。わざわざ届けてくれるなんざ、お前さん優しいね」
「借り物?」
「馴染みの酒屋の娘の持ち物なんだ。ちょっと前まで壊れていてな、直してほしいと預かっていたんだ。失くしたら大目玉を食らう所だった」
しかしこの男。からかわれたくせに、そいつの落とし物を届けてくれるなんざ、見掛けに寄らない肝をしているじゃないか。
懐の広さに感心して、「この前は悪かったな」と、過ぎたいたずらを素直に謝った。すると、男はふいとそっぽを向いて「べつに」とだけ答えた。
世辞を受け取らぬ姿勢にくすぐられ、気付けば男の肩を掴んでいた。驚く相手を無理に引っ張り、「詫びくらいさせてくれよ」と、調子よく誘う。
「大した金持ちじゃないが、ちょっとくらい奢ってやれるから。この前の事も、簪の礼も、それで帳消しにしてくれよ」
「いや、別に…」
男は礼を受け取る気がないらしく、組まれた肩をしきりに解こうとしていたが。
「そうだ。今から酒屋の娘に簪を届けに行くんだ。そこで酒でも奢ってやるよ。帰り道のついでに寄っていこうぜ?な?」
しつこく誘い続けると、やがて諦めたらしく、大人しく結城に引きずられていった。
鐘町の店が軒を連ねる町屋(まちや。商店街)では、ほとんどの店が商いを終え、暖簾を下ろし静まり返っていた。
簪の持ち主の店。もとい、鐘町の酒問屋も店じまいの最中だったが、結城の言いつけを守ってくれたのか、かろうじて戸が開いていた。
「ああ。此処だよ。ちょっと待ってな、いま中に声をかけるから。…おーい。遅くにすまん、ちょっといいか?」
馴染みの酒屋に手をつけ、中を覗くと。
「―――馬鹿いってんじゃないわよ!!」
突然、稲妻のような声が駆け抜けた。結城が目当てにしていた、酒屋の娘の怒号(どごう)だった。
「な、なんの声?」驚きながら、男も中を覗き込む。
「おい明里!いつまでも我が儘いってんじゃねぇ!」
続いて、娘の父親の怒号が鳴り響いた。どうやら、酒屋の親子で喧嘩をしているようだ。
「嫌よ絶対に嫌!あんな狒々(ひひ)みたいな、鼻の下でろんと垂らした男を婿にとるなんて絶対に嫌!前から言ってるでしょ?私は、鼻筋が高くてすっきりした、綺麗な男と結婚したいのよー!」
「芝居の見過ぎだ!十八の、とうが立った年増のくせに!何時までも婿とりにくだまいてんじゃねぇ!お前が狒々だとこき下ろした男はな、こっちの婿に入ってくれるどころか、こんなじゃじゃ馬娘でも可愛いと言ってくれた、大層見込みのある男なんだぞ!てめぇはいい加減、自分の器量の無さを考えやがれ!」
「煩いわね!器量が無いなんて、私が一番わかってんのよ!だから婿に夢見てんじゃないのさ!」
「ええい話にならねぇ!お前、このまま結婚出来なかったら、天国にいっちまったおっかさんにどう顔向けするつもりなんだ!」
「死人に聞いてもしかたがないわよ!そんな事を引き合いに出さないでちょうだい!」
「な、なんて言い方を…!もう良い!もう知らん!こうなったら、お前が婿でも狒々でも連れてきやがれ!出来るもんならな!」
「なによその言い方!いーわよ連れてくるわよ!役者みたいな、すっとしてはっとする、べらぼう良い男を連れてきてやるんだからね!」
「…おいおい店主、さっきからなんの騒ぎだ」
客が入ってきたにも関わらず、ぎゃんぎゃん罵り合う店主と娘の間に入って、親のほうを宥めた。
「ああ、旦那。すみませんね大声出して…外に聞こえちまいましたか」店主が慌てて頭を下げる。よくみると、背後で近所の若い衆や女房たちが中を覗き込んでいるのが見えた。
「…いやね、その」みなに一瞥くれてから、店主は言いにくそうに語り始めた。
「うちの娘も良い歳でしょう?いい加減婿をとって、店を継いで、お互い安心したい訳です。そんで、見合いをさせた訳なんですけど」
「見合い?明里は明日だと言っていたような…」
「向こうの都合で、急ですが今日会う事になったんですよ。娘は支度がどうとか、ぶつぶつ言っていましたが、あっしとしては、会ってくれるなら今日も明日も変わりませんので。で、早速、夜更け前に明里を会わせてきたんですが…こいつときたら、あちらの顔がどうとかなんとか、自分の器量なしを棚にあげて、勝手なことばっかり言い始めやがって」
なるほど。見合いは出来たが気乗りはしなかったという訳か。
叫び声で気づかなかったが、娘は随分めかし込んだ格好でふてくされていた。結局簪は間に合わなかったようだが、この様子じゃ、間に合ってもしょうがなかったみたいだな。
「そうかそうか。…年頃の娘を持つと大変だな」
「そうなんですよ。大変なんですよ。そんな親心も知らず、こいつときたら親不孝にも程がある。今度ばかりは頭にきたんで、あっしはもう知りませんよ。こんな我が儘娘のことなんざ」
「そう投槍になるなよ。こんなじゃじゃ馬でも可愛い娘だろう?それに、年増といえど年頃だ。狒々あてがうのも、そりゃ可哀想ってもんだ。もう少し探してやれ。今度は馬づらくらい見つかるだろうよ」
「ちょっと結城!馬なら良いって話じゃないのよ!」
「おいお前!馴染みの客に向かってその口きくなっていってんだろ!」
「煩い!ええいもう!みんな馬鹿にして!いいわよ!私が婿を連れてくるわよ!明日にでも明後日にでも!なんなら今からでも!私が本気になればね、良い男なんてその辺の道ばたにだって転がって…たーーーー!」
娘がくるりと振り返り、足取り荒く出て行こうとした瞬間、戸口で大声を上げた。
「なんていかした顔なの!」
「…え?僕?」
「そうよ!あんたよ!」
娘は、戸口で立ち尽くしていた男…四文屋に近づくと、その袂(たもと)をむんずと掴んだ。狼狽した四文屋が、困り果てたまま娘を見下ろす。
「これよ!私はこういう男が好きなのよ!ちょっとあんた、結婚してる?してないなら私と結婚しましょう!」
「え……」
…ああ、なるほど。振り返ったら突然、好みの男が立っていた訳か。
確かに、店主の顔は役者も逃げ出す美丈夫だ。娘が喚き始めるのもうなずける。が、行き成り結婚しろは無茶振り過ぎやしないか。
「ねぇ、ねぇ、あんた名前は?私は明里っていうの!」
「……千早(ちはや)だけど」
「そう!千早っていうのね!名前もいかすわ!じゃ、お父さん。私この千早と結婚するから、よろしくね?さ、千早。此処はうるさいからいきましょ」
「お、おいおい!ちょっと待て!こら明里!」
男を連れだそうとする娘を、父親は即座に止めたが、「あら、お父さんがいったんでしょ?」鼻で笑われ、ぐっとその場に踏み止まってしまった。親としての心配と自尊心に、身体が板挟みされているようだ。
足を止めた父親は、ふと結城の方を見た。
途端、情けない顔を見せる。結城に追いかけて欲しいと、顔中が頼み込んでいた。
…やーれやれ。別件できたつもりが、ややこしい事になってきたぞ。
「はいはい、分かったよ」
店主の意向をくみとり、店を出た二人の背を追って、結城も戸口を足場やに跨いだ。
*
明里と四文屋は、店の直ぐ傍、梅の木の下で仲良くおしゃべりに興じていた。といっても、喋っているのは明里だけで、男は困惑している様子だったが。
「…明里、おーい、明里!」横やりをいれると、夢中で喋っていた娘が一旦口を閉ざし、結城のほうをねめつけた。
「なによ、邪魔しないで」あからさまに突き放され、やれやれ、肩がおちる。
可愛い娘が何時までたってもこうでは、親も頭が痛かろう。婿を取らせて、さっさと安心したい気持ちが頷けた。
「そーいえば、ちょっと前に、あんたと結婚してみたらどうだって、お父さんがうるさかったのよ?迷惑な話よね」
「お互い様だな。気が強い女は好きだが、俺はもっと美人でしとやかな女が好きなんだ。じゃじゃ馬だけじゃ、乗り心地が悪くていけねぇや」
「うるさいわね!こっちだって、あんたみたいなろくでなしなんてごめんだわ!…でもあんた、新しい友達の趣味はいいじゃない!この、柳みたいな細い腰に、桜みたいな艶やかさ!もー!ほんっと私の好み!」
自分の悪口はさっさと切り上げ、娘は男に話を戻した。よほど気に入ったらしく、「ねぇ、千早。ちょっとお茶でも飲みにいきましょうよ」しきりに無茶を言っては相手を困らせている。
「こらこら」一度間に入って、娘の方を諌(いさ)めた。
「今からだと、茶のみどころか出会い茶屋(ホテル)になっちまうぞ。嫁入り前にふてぇことすんな、親父さんが泣くぞ」
「そんなつもりじゃないわよ!まったく、男ってば直ぐそっちに話を持って行くんだから…」
「いさめてんだよ。ほら、こいつも困ってるだろ?もう暗いし、お前は店に帰れ」
「えー…」
「茶ならまた昼にでも、ゆっくり飲みにいけばいいだろ?」
「…うー」
暗くなった空と男を交互に見てから、娘はしぶしぶ男のそばを離れた。
酒屋に送り届けると「またきてね、千早。ぜったいよ」四文屋にだけ愛想をむけて、店の中に帰っていった。勿論、結城には挨拶もない。初めから最後まで、まったく失礼な娘だ。
ふと、結城の背後でじっと佇む気配がした。
「あー…っと、悪かったな、店主」咄嗟に振り返って頭をかいた。こんなつもりではなかったのに、明里の所為で筋がおかしくなってしまった。
「その、なんだ。酒だけ奢るつもりが…婿だの結婚だの、おかしな話に持って行かれちまった。酒も結局おごれず仕舞いだし…」
「…いや。それは別にいいよ」
「よかないよ。俺の気持ちがだな」
食い下がっていると、二人の傍で暮れ五つ(午後二十時)の鐘が鳴った。知らぬ間に、時が随分更けこんでいたらしい。
「それじゃあね」鐘の音を聞くと、四文屋は結城を横切り去っていこうとした。「おおい。千早!」その背中に名前をつけて叫ぶ。相手が、驚き様に振り返った。
「今度また店に行くよ。酒も持ってく。そのとき受け取ってくれ」
「だからもう良いって…」
「いやいや、受け取るまで店に行くからな!」
いい加減なしつこさに、相手は辟易した顔を見せたが、にっこり笑って手をふると、観念したのか大げさなため息をついた。そして。
「…ひやかしたら今度こそ、ただじゃすまなさないよ、お客さん?」
*
千早と出会ってはや幾日。今日も結城は、半刻向こうの四文屋へと向かっていた。このところしょっちゅうだ。
約束の酒を届けた後も、二度、三度、四度通い、五度目にはとうとう、料理の虜にされたと自覚した。
彼の作るものはどれをとってもすこぶる美味く、最近など、何処で食っても千早の料理の方が美味かったなと思い出す始末だ。
これは責任を取ってもらわねばと、今日もうきうき、近くも無いのに屋台を目指した。
町屋に出たところで、また土産でも買っていってやろうかと思い立つ。料理は向こうにたんとあるので、甘いものか酒がいいだろう。となれば、菓子屋か酒屋か…。
酒屋といえば、明里に簪を返しそびれたままだったな。まだ煙管入れに入っているので、土産を買うついでに渡してやろうと、数日ぶりに酒屋へ向かった。
「おーい。明里いるかー?酒くれや」暖簾をくぐると。「やっときたわねーーー!」奥から明里が飛び出して来た。結城の袂を掴み、容(かんばせ)を般若のようにゆがめはじめる。なんだなんだと、娘の剣幕に後ずさった。
「どうした明里、血相変えて。まさかお前、結婚の縁が無さ過ぎて、とうとう俺に縋りついたか?」
そんな事はないだろうがな。分かっていつつもからかうと「そんな訳ないでしょ!」元気よく否定された。
「じゃあどうした?」血相を変えた訳を聞くと、「どうしたじゃないわよ!」途端、娘が結城の胸を強く押した。勢いで崩れかけた身体を後ろ足でとどめる。…あぶねぇ!男の力だったら、後ろに倒れて地にぶつかるところだった!
結城が文句を言う前に、娘はつかんだ袂を乱暴に振り回して
「…千早は何時くるの!またきてねって、約束したのに!」涙声で訴えてきた。一瞬ほうけて、次に呆れる。
「…なんだお前、あれを本気にしてたのか?」
「してたわよ!」
「…してたのかよ」
この娘は、自分から「来い」と言った約束を一方的に守っていたのか。
数日経って沙汰がなければ、相手に脈がないことくらい気づくだろうに。疎い娘だ。
「…あー、やめとけやめとけ。お前の器量じゃ、結局つりあいそうにねぇだろうし…いってぇ!」
夢から覚ませてやろうと、口から衣をはいで説教するが、全部言い切る前に思い切り頬を叩かれてしまった。馬鹿野郎!こちとら顔も商売の内なんだぞ!
痛む頬を摩って、文句のひとつでも飛ばしてやろうと思ったが、…すすり泣く声が聞こえたのでやめた。
「あ、会わせてよぉ…」かしましさを無くした娘が、鼻水まで垂らし、うらめしそうに結城を見上げてくる。
「泣くこたねーだろ。…しょうがねぇな。今からちょうど、おまえんとこの酒を土産に千早のところへ行くつもりだったんだ。良ければお前もいくか?」
誘った途端、それまでどしゃぶりだった娘の顔が、みるみる晴れていった。
「そういうことは先に言いなさいよ!泣いて損したわ!さあいくわよ!」
懐紙(かいし。懐に入れて持ち歩く和紙のこと、ティッシュ)を取り出し、豪快に顔を拭くと、娘はあてずっぽうに走り出した。
「まてまて!そっちじゃない!その前に酒だ!」
慌てて止めるが、気分はうずくばかりのようで、「まだ?ねえまだ?」出発はまだかと散々つつかれた。
「…此処数日、娘はずっとこんな調子でしてねぇ」
結城に釣りを渡す途中、店主が呆れた声で呟いた。
「まあ、あっしは、娘が婿を貰ってくれるなら、この際芝居から出てきたような男でも構いませんよ」
声に疲れが滲んでいる。ご苦労様だなと労えば、店主…娘の父親は、ははと力なく笑った。
*
明里を伴い、半刻歩いて千早の店に赴くと、すでに他の客が床机(しょうぎ、長椅子のようなもの)に座って食事をはじめていた。
後で知った事だが、千早の店は味がよいため、場所の悪さも去ることながらそこそこ繁盛していた。
「化け物四文屋」と呼ばれるようになったのも、馴染みの客が冗談でつけたあだなが、そのまま噂として流れたとのこと。
いつかに出会った客が「夜遅くにも開いてるし、美味いし。こんな良い店、あんまり繁盛されたら俺の分がなくなっちまうよ」と言っていたのを思い出す。あの時は、なるほど、名実共に「つう」好みの店なのかと、妙に納得したものだ。
「千早ー!きたぞー!」
暖簾向こうの千早に声をかけると「いらっしゃい。今日はなんにする?」顔を隠した(顔を隠しているのは、自分の顔が秀でている事を自覚している為、客に食事から気をそらせないよう被っているらしい。今後ははぐなと怒られた)店主から、何時も通りお伺いの声が続く。かと思いきや。「…くしゅん!」盛大なくしゃみに出迎えられ、呆気にとられてしまった。
「おいおい。大丈夫か?風邪でもひいたのか?」
「…いや。ちょっと冷えただけだよ。平気、ごめんね食事の前に」
「それは構わねぇけど」
無理はするなよ。と労る前に。
「ちはやー!」
突如、かわいらしい声が響き渡った。男やもめになっていた客たちが、なんだなんだと首を振る。「あれ?まさか…」振り向くと、そこに居た筈の明里の姿が消えていた。
「…あかり」
千早が、声の持ち主を言い当てる。どうやら、何時の間にかあちらに走り寄っていたらしい。
「千早、いた!会いたかったわ!…あれ?なんで布なんて被っているの?」
屋台の向こうで、女が店主の布をためらいなくめくった。驚いてはいるが、店主に咎める様子はない。どうやら、娘には多少の情がきくらしい。
しかし、明里がなかなか布を離さないので「こら!だめだよ!」その内布の引っ張り合いが始まった。
「おい。明里。千早はな、お前みたいに一目惚れする女がいないように、はなから布かぶって隠してるんだよ」
しつこいムスメに説明してやると、一瞬呆けてから「私の為にもいいわね!」娘は前向きに手を叩いた。
千早の布から興味をなくすと、明里は次にはっとして、屋台の前にぐるりと回った。驚く客の間に割り込んで、ばん!と、千早の前を叩く。
「もう!千早ったら!また来てねって約束したのに、何時まで経ってもこないんだから!ひどいわよ!」繰り返し叩く音が煩かったのだろう。客が何人か、困ったように眉を下げて退散してしまった。なんて迷惑な娘だ。
店主といえば、これもまた困り果てている様子だ。助け船でも出してやろうかと思ったが。
「…ごめん。行こうとは思ってたんだけど、なかなか暇がなくてね。あかりさえ良ければ、今日はお詫びにご馳走するよ」
結城が手を出す前に、店主がやんわり娘を気遣った。普段は愛想のない奴だが、女相手ならばこんな風にも出来るのだなと、少し感心する。
「ほんと!嬉しい!ありがとう!」明里がぴょんと、蛙のように跳ねた。打てばくるりと変わる様子に、ほうぼうから、くすりと忍び笑う音が聞こえる。
ああいう、あどけない所さえよく出ていれば直ぐに婿を貰えただろうに。若い女は面(つら)ばっかり食ってていけねぇや。
今でも、艶やかな店主に夢中なのか、きゃあきゃあはしゃいではしきりに気を引こうとしている。
だがそれも、料理が出ればぴたりと止んだ。
「さあ、どうぞ?」店の前に回った千早が明里に差し出したのは、蕗(ふき)の煮つけと豆腐田楽。焼いたばかりの味噌の香りがこちらにも流れて、ごくりと唾を飲み下す。蕗も今が旬なので、煮つけはさぞ美味かろう。うまそうな肴に誘われ、「俺も同じ物をくれ!」と叫んだ。
店主から料理を受け取った明里は、床几に座ると箸を掴んでそれらをひとくち、頬張った。もぐもぐ、何回も噛みしめてから。
「…おいしい」
うっとりと目を細める。
もくもくと食べ続ける明里の傍で、ふと、店主の布が揺れた。笑ったのだろう。優し気な雰囲気だった。
「他にも出してちょうだい」明里は自分の懐から袋を取り出すと、銭を出して追加を強請った。「千早。俺も追加をくれよ。ついでに酒も」結城もおかわりを頼んで、千早が手際よく二人の配膳を始める。あれこれ楽しんでいる内に、周りの客がひとり、またひとり、銭を置いて帰っていった。
…そろそろ自分たちも退散するか。若い娘もいることだし。
「おい明里、そろそろ…」明里に声をかけたが。
「…ねえ千早、やっぱり今度、うちに来てくれないかしら?」
明里はそれを遮り、俯いた。顔の下には、綺麗に食べきった皿が一枚。
娘が呟いた言葉に、何事だと目を見張る。明里はいまだ、顔を上げなかった。
「なんだなんだ。どういう意味だ。お前、千早をもう婿入りさせる気か?」
「そうじゃないわよ!いやそのつもりだけど!そうじゃなくて…実はね、千早!」
勢いよく立ち上がると、千早に近づき手を掴んだ。…途端。店主の身体がぐらりと傾(かし)ぐ。明里の勢いが良すぎたのだろう。おいおいなにやってるんだ、娘が男を倒すなよ。笑って茶化そうとしたが。
「……おい、千早?」店主が傾いたまま戻らない。
「ちょっと、千早?」手を離した明里が、千早の背中に回った。
「どうした、大丈夫か」
「ああ、ごめん。…ちょっと…っ」そのまま、千早は明里の方へふらりと倒れた。「千早!」どちらの物と言えない叫びが空に昇る。「明里!変われ!」千早の頭を抱えて、おろおろする明里から千早を奪い、布を乱暴に剥いだ。中から、千早のぐったりとした顔が現れる。気が薄いのか、目が半分に落ちて窪んでいた。…こりゃいけない。
「誰か!こいつの住処を知らないか!」
向こうだと、客の誰かが声を上げる。礼を言うと、結城は直ぐに千早をおぶって、その場から一目散に駈け出した。
*
「四文屋の店主が倒れたぞー!誰か知り合いはいねえかー!」
「だれかー!」千早をおぶったまま、明里と近所の長屋を駆けまわる。行ける範囲を、何度も叫びながら往復していると。
「…千早さん!どうされました!」やがて裏長屋の戸がひとつ、すぱん!と開いた。中から、やせ細った糸目の男が飛び出してくる。
「おお!あんたこいつの知り合いか?」
「ええ。左様で!さ、こちらへ」
男は戸口の中に結城たちを誘うと、板敷の上に千早を寝かせ、自分の布団をかぶせた。
ごろんと寝返りを打った千早の顔が、赤色から土気色に変わっている。はぁはぁ零れる息は荒く、額はしとどに濡れていた。手ぬぐいを出して、汗の滲む額を拭ってやるが、直ぐに代わりの雫が滲んだ。
「最近、様子がおかしいとは思っていたのですが…」男が、ぽつりと零した。
「あんた、こいつとは長いのか?」仲を探ると、「ええ、そこそこ」男が照れ笑いを浮かべた。顔が柔和で、子猫のようにやわらかい。害のなさそうな男だと思った。
「この調子では薬が必要でしょうか…直ぐ、お医者様を呼んで参りましょう。ご近所に明朗庵があります。私がひとっ走り行ってきますので」
「そう…いやいや。あすこはやめておけよ」
頷きかけて、とどまる。噂によればあそこはヤブだ。適当な事を言って、これが薬だと炭を振る舞い、客が若い女ならば、診る振りをして悪戯するらしい。そんな助平爺に知り合いを任せるなど冗談ではなかった。
ううんと考えこんでから、結城はよしと立ち上がった。手ぬぐいを二つに裂いて袂を縛ると、傍で座り込んでいた明里に、「おい」と振り返る。
「お前、表にいってよもぎとははこぐさを取って来い。たくさんとってくるんだぞ」
「え?よもぎ?ははこぐさ?」
「いいから、すぐに行ってこい」
「わ、分かった…ちょっと待ってて」
「おう。早く帰って来いよ」
明里の姿が見えなくなると「ええと…あんた、名前は?」今度は男に話しかけた。
「はい。申し遅れました。私は多尾(たお)と申します」
「そうか。多尾さん。ちょっと竈(かまど)を借りても良いか?」
「はい?かまいませんが…一体なにをするおつもりで?」
「ちょっと、医者のまねごとをな」
医者を兼業している友人と話し込んでいると、診察や薬の知恵が話の種に昇ることがままある。それを試してみようと思うのだ。
「多尾さん、もうひとつ頼み事なんだが、井戸にいって水を取って来てくれないか?」
「水ですか…?分かりました」
「悪いね、宜しく頼むよ」
早速火をくべ、竈の準備をしていると「お水、とってきました!」間をおかず、男が水桶を担いで戻ってきた。礼を言って受け取り、半分を鍋の中にいれる。
「結城!よもぎとははこぐさをとってきたよ!」水が湯になり、吹きあがる頃、野草と明里が中に駆け込んできた。「おう。悪いな」物を受け取り、水桶の残りで丁寧に汚れを落とすと、それも鍋の中に放り込む。
「ねえ、結城、さっきからなにをしているの…?」結城の行動が不可解だったのか、明里がおずおずと訪ねてきた。
「んー?薬湯を作ってるんだよ」振り返らずに応える。
「武流が前に言ってたんだ。野草を煎じると熱の薬になるらしい。干す時間が無ければ、煮詰めて飲むのもいいんだってさ」
「ああ、武流くん…お医者様をやっているものね」
「持つべきものはヤブより友だな。…よっしゃ、出来たぞ!」
近くにひっくり返っていた茶碗を失敬して、ぐつぐつ沸きたつ深緑の濁りをすくうと、寝ている千早に近づけた。
「おおい、千早、気分はどうだ?これ飲めるか?」そっと尋ねるが返事が無い。昏睡しているようだ。仕方がないので、無理に抱き起して椀を口に含ませた。
三口程飲んだところで盛大に咽た。そこで漸く気を取り直したらしく、咳き込みながら結城を細い目で睨んできた。
「どうだ店主。うまいか?」
「…はっ。味が最低だ。しっかり調理しろよ」
「おいおい!こんな時まで仕事すんなよ!あっはっは!」
結城が笑っている内に、千早はもう一度布団に倒れ込んだ。唸りながら、再び意識をぼやしている。
しかし、気を取り直したお陰か、顔に生気が見て取れた。この調子なら明日には良くなるかもしれない。
やれやれ、足を上げて多尾に振り返る。
「多尾さん、後は頼めるか?薬はそのつど飲ませてやってくれ」
「はい。承知しました」
「そんじゃあ、俺たちもう帰るよ。…おい明里、帰るぞ。親父さんも心配してるだろ」
結城に肩を叩かれると、おろおろしていた明里の肩がぴゃっと跳ねた。さっさと部屋を出る結城のあとを、娘が慌てて追いかける。その際、何度もなんども千早に振り返っては、心配気な目を寄越した。
「大丈夫だ。だいじょーぶだって」結城にしつこく諭され、漸く目が外に向く。「またね、千早…」最後にひとこと残して、結城と明里は月明かりの下に並んだ。
「どうも、有難う御座いました」背中から見送りの声が聞こえる。振り向くと、男が戸口の外に立って、深々と頭を下げていた。
*
「やぁ。いるかい」
千早が倒れてはや二日。そろそろ見舞いにでも行ってやるかと思った矢先、本人が結城の元を訪ねてきた。
憂い気な美貌に陽を当てながら、「世話になったね」と頭を下げる。
「そんなこたないよ」吸っていた煙管を盆に打ち付けて、良かった良かったと快気を祝った。
「もう調子はいいのかい?」
「ああ、随分といいよ」
「そりゃよかった。苦し気だと、お前は余計美人になっちまうからな」
「洒落た言い方をするね。腹が立ったよ」
「あっはっは。口が滑るのも仕事なもんでね」
「良いご身分だな。僕には到底真似できないよ」
「よしてくれや。お前の美貌で真似されたら、俺の商売あがったりだ」
減らず口を叩き合ってからすぐ、ぽんと手を打った。
「…そうだ。お前帰りに明里のところへ寄ってやれよ。あいつ、お前を随分と気にしていたぞ」
「そうなの?分かった。寄っていくよ」
「俺も行くよ。酒がちょうど切れてるし、なんなら、快気祝いもかねてお前の分も買ってやるよ」
「余計なことをしなくていいよ」
「おっと。店の主なら、馴染みの祝いは無碍(むげ)にするなよ?」
「やれやれ…分かったよ」
出掛ける支度を直ぐに終え、男二人で長屋を出ると明里の住む町屋に向かった。道行く人に紛れて歩き、酒屋の前でぼて振りとすれ違う、その時。
「うわ!」目の前に、突然影が飛び込んた。急な事に二人で驚き、結城だけ転げそうになる。しかし、先に転げたのは影の方だった。
良くみると、恰幅の良い人の形をした影の正体は、明里の父親だった。
酒屋の主人は転げたまま、しかし、何処かへ行こうと這いずり回っている。
「どうした店主!なにかあったのか!」様子のおかしさに耐え兼ね、そっと相手の身体を起こしてやると、目をまわしていた店主が漸く結城の方を見た。
「ああ!小間物屋の旦那!」切ない声で喉をからしている。余程火急のことがあったらしい。
どうした。落ち着いて訳を話せ。繰り返し相手の気を休めさせると、ふ、ふ、と、荒く呼吸していた主人が、やがて、どっと汗をかきながら、胸の上を握りしめた。
「へぇ、へぇ。すいやせん。取り乱しちまって。まったく情けねぇ」
「いいから。いったいどうした?」
「その、それがですね。娘が悪い風邪をもらっちまったみたいで…。今朝から動かないんですよ。それで、今から、武流先生のところへ、ひとっぱしり行って来ようと思って。そしたら、転んで、思わず気が動転しちまったんですわ」
「…ああ、あいつ貰っちまったのか。それは災難だったな。すぐ武流のところに行ってやれよ。なんなら、帰ってくるまで俺たちが明里を見ててやるから」
結城の申し出に、店主は「すいやせん。お願いします」と頭を下げた。引き受けの合図に片手を上げる。
主人は何度も礼を言った後、一目散に駆けだしていった。それを見送ると、結城は酒屋の暖簾を捲った。その後ろで、千早が結城の背を掴む。
「ねえ。君はともかく…僕もご一緒して良いのかな?」
「乗りかかった船だ。一緒に面倒見てやろうぜ。なに、明里のことだ。お前の顔見た方が具合もよくなるだろうよ」
「…そんな事で治れば良いけどね」渡り船に乗って、千早もおずおず中に続いた。
酒屋の作りは、一階が売り場と台所、二階が寝所になっていて、上に昇ると、奥の畳に布団がひとつしかれていた。人の形で盛り上がった布団の中から、ときおり、こんこんと、小さな咳が聞こえてくる。
「おい明里。大丈夫か?」
布団を捲って中を覗きこむと、「…ちはや?ゆうき…?」中から、かよわい女の声が聞こえた。
顔を真っ赤にした明里の様子が先日の千早と被さった。やはり貰い風邪のようだ。
千早と結城の来訪に目を丸くさせていた明里だったが、やがて、寝間着の崩れを恥ずかし気に直しながら。
「だいじょうぶだよ。そんなに悪くないから。もう、お父さんてば、大げさなんだから」
無理に起き上がろうとして、ふらりと傾いだ。その肩を、千早が慌てて支える。
「…ごめん。千早。でも嬉しいな。千早がお見舞いに来てくれるなんて。待ってて、いまお茶を出すから…」
「そんなの良いから」甲斐甲斐しくもてなそうとした娘を千早が布団へ押し戻す。明里は一瞬、耐え兼ねたように目を閉じ、やがて崩れ落ちた。ひどく苦しそうだ。
「…僕の所為だね」真面目な声で自分を責める千早に、よせやと横やりを入れる。
「お前の所為じゃねぇ。風邪と口に戸が立てられねぇだけだ」
「でも……」
千早は少し考え込んだあと、何を思ったのか、懐から襷(たすき。和服の袂が邪魔にならないように縛る布のこと)を取り出し袂を縛った。
「結城。この前僕に飲ませたやつ教えて」振り向きざまに問われ、なんのことかと狼狽えるが、…ふと、薬湯の事ではないかと思いつく。
「おい、千早。落ち着け。心配なのは分かるがな、親父さんが今医者を呼んでくるから…」
「いいから」
張りの良い声で諌められた。先日まで、自分も病人であった事など嘘のようだ。
「…はいはい。分かったよ」ちっとも話を聞かない様子だったのでこちらが折れた。下に降りて、勝手に店の竈を探る千早の傍で、やれやれ、後で謝るのは俺かなぁと、溜息をつく。
粗方作り方を教えた後。
「じゃあ、それを取って来てよ。ついでに、菜屋(さいや。総菜屋、外食の飯屋のこと。おかずの持ち帰りのできる店もさしている)で白米と煮豆を買ってきてよ」使い走りを頼まれた。…これも渡りに船かと、しぶしぶ頷く。
あちこちでよもぎとははこぐさを取って布にくるみ、帰りに菜屋で言われたものを買って戻ると「持ってきたぞ」と千早に声をかける。
「ありがとう。あとはいいよ」肩で息をする結城の手から、半ば奪い取る形で野草とメシが消えた。
千早は、勝手に火を起こした竈に鍋をおろすと、早速、脇にためてあった水で野草を洗い始めた。菜屋のメシは何に使う気だろうか。訝し気に思っていると。
「…おいおい。なにやってるんだ」
湧いた湯の中に白米を入れ始めたのを見て、ぎょっと目を剥く。
「なにって、料理だよ。見て分からないの?」
ある程度煮たてて白米をむくませると、次に煮豆と野草、最後に塩、味噌、酒を入れた。あまり沸騰しない内に火をけして、少し冷ましてから中身を椀によそう。
こっそり、鍋に近づきすくい舐めてみた。そして驚く。…これは美味いぞ。
酒は野草の臭み抜き。塩と味噌は整え。煮豆や白米は甘味の役か。野草だけなら苦いものを、粥に仕立てた訳だ。さすが料理人。複雑な拵(こしら)えをしやがる。
「随分手の込んだことしたな」茶化して言うと、美貌の店主は高い鼻を鳴らした。
「年頃の娘に、あんな不味いものを飲ませられるかよ」
「そうか。飲ませて悪かったな」結城は頭を下げて、こめかみをかいた。
「まったくだよ。無理に流し込みやがって。次は伺いくらい立てろっての」
一応立てたんだけどな。…ま、深くは言うまい。
出来上がった薬粥を手盆で運び、二階で寝ている明里の元に早速届けた。
「あかり。良い物作ったよ。良かったら食べて」
そっと近づくと、苦しそうに上下していた明里の目がぱちっと開けた。千早の時とは違い、明里は意識がしっかりしているようだ。
しかし、それはそれで辛いのだろう。何時もは勝気な娘の眉が、今日はとことん下がっていた。
「うん…?いいもの…?」
「そう。美味しい薬粥を作ったよ。食べると元気が出るよ」
「千早がつくってくれたの?」
「そうだよ。たべられるかな?」
千早に誘われたのか、それとも、匂いに誘われたのか、明里がふらつきながらも身体を起こした。
「…たべる」
苦しそうに唸りながら、千早の持つ粥に興味を示す。「はい。どうぞ」匙を口元に添えられ、それをひとくちほおばると、途端、口元をほろほろに溶かした。
「おいしい」千早の手で、幼子のように何度も粥を食わせてもらう。しかし、そのうち食欲の無さが勝ったらしく、半分ほど残して、申しわけなさそうに頭を垂れた。
「ごめんなさい。もういらないわ」弱弱しく謝る明里の肩に、千早がそっと触れた。
「いいよ。ほら、横になって」しばらく、夢見心で千早の顔を見上げていた明里だったが、瞼に手を添えると、だんだん、体の力が緩んでいった。
千早の手が明里の汗で湿るころ、すうすう、寝入る音が聞こえてきた。どうやら、そのまま眠りに落ちたらしい。
薬も食った。粥も食った。寝床にもついた。これで一安心だ。
「……明里ちゃーん、大丈夫?」
武流がやってきたのは、それから子半刻(こはんとき。約30分)経ってからだった。
「明里!大丈夫!先生を連れてきたぞ!」娘大事と、駆け込んできた父親とは反し、「ごめんね遅くなって。今日は急患が多くてさ」友はのんびりした口調で二階の敷居をまたいだ。結城に気付くと、ひらひら手を振ってくる。つられて振り返しておいた。
「先生!娘の様子は如何でしょうか!」
周りの様子など目もくれず、店主が武流にしがみついた。その手をやんわりほどき、医者は布団の傍に座り込んだ。千早が、さっと身を引く。
「…あれ?貴方は」
武流は一瞬、千早の方を興味深そうに見たが、明里が唸るとすぐに患者へ意識を戻した。
目を覚ました明里は先ほどよりも息が荒く、汗の出方もひどかった。もしや悪化したのかと胆を冷やしたが。
「ああ。良い汗が出ていますね。これはもうひと眠りすれば大丈夫ですよ」事もなげに、武流が快方の兆しを告げた。
「…おや。よもぎの香りがしますね。どなたか、薬湯を明里ちゃんに呑ませてあげたんですか?」
「はい、僕です。先日、……知人が、僕に同じ物を飲ませてくれて、それから良く効きましたので」
「そうですか。知人とは結城のことですね?結城、よく覚えてたね。えらいじゃないか」
「まーな」
事の経緯を大体把握した武流が、おつかいの出来た子供を見るような目で結城に振り返った。よせやその笑い方、むずがゆくなるっての。
いっとき、和やかな空気に満たされたが、父親だけは気が気でないらしく、しぶとく武流に詰め寄っていた。
「娘はまだ辛そうですが、本当にもうひとねむりで良くなるんでしょうか」
「ええ。温かくしてゆっくりすれば、なんてことはありませんよ」
「お父さん。もう大丈夫よ…」それまで、周りの話を静かに聞いていた明里が、自分の容態を自分で援護し始めた。おろおろゆれる父親に、布で鼻をふきながら笑ってみせる。
「千早がね、美味しいおかゆをつくってくれたの。それ食べて少し寝たら、びっくりするくらいあったかくなったの。さっきまで、熱いのに寒くて、あべこべで、しょうがなかったのにね。まだ息はつらいけど、それだけよ。すぐ良くなる気がするわ」
娘から直接なだめられて、ようやく心が砕けたらしく、店主がふうと、その場に崩れ落ちた。
「お父さん、心配かけてごめんね…」少し老けたその背に明里は手を伸ばしかけたが「くしゅん!」大きなくしゃみに阻まれた。
年頃の娘が流すには大層情けない水が、小さな鼻から垂れ落ちた。あわてて布を拾い、鼻に押し当てている。
「ああもう。色気のねぇ鼻しやがって。…おい、そんなにかむと潰れちまうぞ。ただでさえ小さくて低いのによ」
「うるひゃい…」
「大丈夫だよ結城。鼻が潰れても明里ちゃんはかわいいよ」
「うるひゃい…!」
「あかり。そんなに鼻をかむと赤くなるよ。ほら、布を湿らせてくるから、貸して?」
「…千早やさしい!」やわらかく触れる男にじゃじゃ馬は大層感激したらしく、布ごと相手に飛びついた。
ああ確かに。この調子ならもうすぐ治りそうだな。部屋にいる誰もがそう思ったに違いない。
「おとーさん!私やっぱり、千早と結婚するから!ぜったいよ!」
こんな時でも色に花を咲かせる娘に、父親は複雑な笑みを浮かべた。親の心子知らずとはこのことだな。
「千早。明日もお見舞いにきてね?ぜったいよ?」
「…まあ、元はと言えば僕の所為だし」
勢いに呑まれて千早がうなずく。
貰ったのは明里の勝手だとは思うが、そんなことを言うのは野暮ったい雰囲気であった。
「…結城」そろそろ退散しようか。武流にそう言われたような気がして、頷き立ち上がった。二人で部屋を後にする。
残されたのは、千早にまとわりつく病人と、こまったように相手をする男と、二人を見守る父親の姿だった。
*
結城が晩酌の酒を買いに出かけたとき、酒屋の前で千早とばったり出くわした。
酒を買いに来たのか?と思いきや、彼が手ぶらで帰ろうとしているのに気づき、忘れかけていた数日前のことを思い出した。
「見舞いか?」
「うん。そう。もう随分良いみたいだけどね」今度は約束を守ってやった訳か。律儀な奴だな。
「ちはやー!忘れ物!」千早と暫く話し込んでいると、酒屋の奥から噂の娘が飛び出して来た。千早の言う通り、病の気配は薄れ、頬には何時もの紅がさし込んでいた。
「置いたままだったわよ。はいこれ」
明里は胸に抱えた荷物を千早に差し出した。しかし。「ちがうよ、これはお土産なんだ」受け取った千早が、風呂敷をほどいて竹皮の包みを取り出して言った。中には小ぶりのおはぎが並んでいる。どうやら、土産だと言っておくのを忘れたらしい。
「あら!そうだったの?ごめんね。それじゃあ折角だし、これをおやつにもういっぱいお茶でもどうぞ!」帰る間際だった千早が、再び中に引きずり込まれていく。つられて結城も店に入ると、早速おはぎを掴んで頬張る明里の姿が見えた。やれやれ。元気になったと思えばすぐこの調子か。恋する女は勢いが良すぎていけないな。
「あい。みなさんお茶でもどうぞ」同じ刻に入った所為か、茶を持ってきた店主が、なぜか結城の分まで並べ始めた。
俺はいいよ、甘いものは苦手なんだ。そう言って下げてもらおうとしたが「旦那…どうか座ってくだせぇ。どうか娘の隣に」必死に席を進められ、ぴんとくる。娘と千早の間に水を差せという魂胆だな。まったく失礼な。俺は衝立じゃないんだぞ。
大体、娘が結婚出来ればこの際誰でも良いと言っていたのはどこのどいつだ。後になって惜しくなるんじゃねえよ。
自分で遮れと言いかけたが……親の心中を慮(おもんばか)って、結局茶を頂く事にした。
二人の隣に腰掛けると、明里が邪魔くさそうに結城を睨んだ。そんな顔するなよ。身の置き場がどこにもなくなるだろう。…俺は酒を買いに来ただけなんがなぁ。
「千早、お茶をどうぞ。尾崎屋さんで買ったお茶なの。おいしいわよ」
結局、明里にとって結城がいるかいないかなど関係がないらしく、さっさと千早に気を移すと、楽し気に茶とおはぎを堪能し始めた。
「おい明里。お前いちおう病み上がりだろ。おはぎなんぞ食ってていいのか」
「いいのよ。もう元気だもの。むしろ、食べなかった分だけおなかがすくのよ」
からから笑って、娘はみっつめのおはぎを頬張った。
「このおはぎほんとうに美味しいわ。ねえ千早、このおはぎどこのお菓子屋で買ってきたの?千早のお店の近く?私も行ってみたいわ」
「いや。これは自分で作ったんだよ。女の子は甘いものが好きだろうと思って」
今食べている菓子が四文屋の手作りだと知れた途端、明里が、次に次にとほおばり続けていた手をぴたりと止めた。
「…あなた、こんなに美味しいお菓子も作れるの?」眉をぎゅっと寄せて、梅干しを噛んだような顔になる。
なんだなんだと、娘の顔を覗き込んでいると。
「…ねぇ千早、あなたにお願いがあるの。この前は言いそびれてしまったのだけれど…聞いてくれないかしら?」
酸っぱい顔から一転。眉をちょこんと下げた明里が千早の手を取った。
*
明里は千早を連れ、酒屋の隣に向かった。隣も店の構えをしていたが、人気(ひとけ)がないので、今は誰も住んでいないようだ。
明里が言うには、前まで隣は煮売屋(にうりや。菜屋とおなじく惣菜屋のこと。主に煮つけたものを売っていた店のことを指す)だったらしい。言われてみれば、すすけた煮売り屋の看板が、戸口の下で無残に割れ落ちていた。
「こんなところになんの用なんだ?」結城が訪ねると、「結城には関係ないわよ」にべもない事を言われた。…酔狂でいるんだ気にするな。
「…うちで隣を買いとったのよ」たてつけの悪い戸をがたがた開けながら娘が呟いた。中は煮売り屋らしく、大きな鍋や笊(ざる)がごろごろ転がっていた。
「ここの煮売り屋さん、けっこう繁盛していて、うちとも長いことお付き合いがあったの。でもね、主人が大きな借金をしてしまったらしくて」
「へぇ?店でも増やそうとしたのか?」
「いいえ。余った金子(きんす)で廓通い(くるわがよい。遊女に金を払って遊ぶこと。通うこと)を始めた途端、やめられなくなってしまったらしいの。借金してまで遊女にいれあげて…最後は、家族で夜逃げししたんだって聞いたんだけど。ほんとうに夜逃げだったのかどうかも…」
みんないなくなってから、後で聞いた話よ。その口調がどこか寂し気だった。親しい人達だったのだろう。「…そうか。つらかったな」それだけ言って、それ以上は何も言わなかった。
「…それでね、新しいことを始めようと思うの!」しんと濡れた空気をぬぐう、明るい声で、娘が言った。
「新しい事ってのはなんだ?まさか煮売り屋をやるのか?」
「違うわ。料理屋をやろうと思うのよ。酒屋の隣で料理が出せるなら、なにかと便利じゃない?」
「…それはまた、安易な思いで大枚を叩いたな」
「なによ!お父さんが言い出したことなんだからね!」
「そういう問題じゃなくてな…ああ、店主がお前の婿を必死になってた探していた理由のひとつがこれか」
店の担い手を早くとっておきたいのだろう。新しい店を開くのならば猶更(なおさら)だ。
「…居酒屋」
やいやい言い合っていた明里と結城の傍で、千早がぽつりと声を零した。「いざかや?なんのはなし?」明里が振り返って、言葉の意味を尋ねる。
「いや。何処かでそんな名前の店があるって聞いた事があるんだ。居座る酒屋。って書くんだけど、明里の言ってる店がそれらしいなって…なんとなく思っただけなんだけど」
「居座る、酒屋で、いざかや?…ああ!良い名前じゃない!ねぇ千早、その名前貰っていいかしら?酒屋に居座って料理を食べる居酒屋が出来たって言えば、良い触れ込みになるわ!」
「べつに構わないけれど……それより、僕にお願いしたいことって、なんだったの?」
「ああ、そうそう!でもその前に…」明里が跳ねて、今度は酒屋の方に入った。奥の竈に千早を連れて、何故かこまごまと料理を作り始める。
「ちょっと待っててね、すぐに出来るから」
危なっかしく包丁を使い、投げ込むように具材を放り込んでいく明里の手際の悪さに、四文屋の眉が跳ねた。今にも手を出しそうな形相だ。
料理が出来ると、明里はそれを千早に差し出した。食べるよう勧められ、千早が無言で椀を取る。
どうやら蛤(はまぐり)の味噌汁を作ったらしい。手際の割には、旨そうに出来上がっている。
「どう?おいしい?」
「…うーん。悪くはないかな」
千早は椀を置いて、それ以上呑もうとはしなかった。結城も残りを味見する。
…確かに悪くない。しかし、だからなんだという味だ。人に呑ませるほどでもない。
答えを予測していたらしく、明里は特に気落ちした様子もなく「やっぱり?」と肩をすくめた。
「あーあ、やっぱり私の腕じゃ売り物にはならないか」
「なんだお前、これで売り物になると思ったのか?」
「なると思ったんじゃなくて、ならなくちゃいけなかったのよ。隣で料理屋を開くとなれば、料理人が絶対にいるでしょう?でも、人を雇うとたくさんお金がかかるし、第一、雇っても腕が悪かったりしたら、こっちは大目玉よ。だから、お父さん、あたしにやれやれってしつこく言ったのよ」
自分と父親が食べる分しか作った事がないので、客に出す腕はない。自分には無理だと言ったらしい。けれど、やってみないことには分からない。ひいては店のために。そう言って、父親が知り合いの料理屋に頼んで、明里に料理を習わせたらしいのだが。
「結果はこのざまよ。習い先で、指切ったり怒鳴られたりしたのに、これじゃ踏んだり蹴ったりよ」
確かに、店でこの味噌汁を出すのはまずいだろう。
只でさえ料理屋の多いこの辺りでは、外の飯が美味いことなど当たり前なのだ。平々凡々な味噌汁など出された日には、客は金を投げつけ二度と敷居を跨ぐまい。まだ、千早のような腕があれば別だが…。
「ん?」首を傾げた。いま、何か繋がったような。
「それでね千早!お願いは此処からなの!」結城の思惑が成る前に、明里が肩を盛り上げ千早に飛びついた。恥ずかしげもなく膝に乗り、驚く千早に頬を寄せる。
「千早!あなたがうちで料理を作ってくれないかしら!」
「……え?いや、それは…」
なるほど。努力は潔く諦め、確実に料理が美味い相手を雇おうという魂胆か。
くわえて、千早は明里の想い人である。うまくやればそのまま婿入り。料理屋も酒屋も居酒屋も明里の将来も安泰というわけだ。可愛い顔してなかなかせこい事を考える。
「僕も店があるから…それはちょっと」
「貴方に無理がないように、色々融通するから!お願い!千早なら、金子もケチを言わないわ!」
「いや、そう言われても…」
「おねがいおねがい!千早だけが頼りなの!ううん、他の人雇うなんていや!千早じゃなきゃいや!お願い頼まれてぇ!じゃないと、あたしも店も困るのー!」
身も蓋もなくしがみついて拝み倒すと、千早はやがて、やれやれ首を振った。
「……しょうがないな。こっちに無理がない範囲なら、考えるよ」
「ほ、ほんと!」明里は勢いよく顔を上げ、自分の無理が通った事に喜んだ。
「いいのか千早」
「まあ、ここまで言われたらね」
千早はため息混じりに笑っていた。
娘の駄々を、仕方なく、しかたなく、飲み下した風に。
続きは本紙でお楽しみ下さい。
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