「一等星/恋の歌舞伎座」
桜の花弁がすっかり落ち切る、初夏を迎えた卯月(うげつ、5月21日~)の頃。
「簪、おしろぃー、くしにおうぎぃは要らんかねー。別嬪さんにしかうらねぇよー。別嬪さんはよっといでー」
今日も今日とて、気ままな小間物屋(こまものや、雑貨や化粧品などを扱う店)結城(ゆうき)は、昼八つ(午後2時)に箪笥(たんす、江戸時代は歩き売りや訪問販売をする為に、背負えるタンスが用いられた)を背負って商いに出かけていった。
あちらこちらに足を運び自慢の声を張り上げると、早速、長屋住まいの女房や表店の女将、年頃の若い娘から後家まで、こぞって結城のもとへむらがり始めた。
「ゆうさん、おしろいを頂戴な」
「良い扇子(せんす)があるじゃないか。これひとつおくれよ」
「はいはいまいどー」
「ゆうさん、この紅ちょっと見ない色だね。どこで仕入れたんだい?」
「ちょいと張り込んで、上方(かみがた、京都、大阪、またはその近辺のこと)で流行ってるって紅を仕入れてみたんだよ。なかなかいい色だろう?向こうじゃ、このツヤの良い色を口にちょいとさすと、男はみんなひと目でそいつに夢中になっちまうって、評判なのさ」
「本当かい?それじゃあ、あたしがこの紅さしたら、ゆうさんもあたしにころっといっちまうってのかい?」
「そうだなぁ。これ買って口にさしてくれたら、やぶさかじゃねぇよ?なんなら俺も買ってみるか?」
口を寄せてささやくと、女将の顔がたちまち赤らんでいき、しまいには離れていってしまった。ちとからかい過ぎたようだ。
結城は器量(顔だち)に恵まれたおかげで、こうして娘から女房まで、まだまだ盛りの女相手に商売することを得意としていた。仕入れの目利きも良く、おしろいや紅、簪などはその都度売れに売れ、てづから(自分で)整えた扇子紙なども、色が良い柄が良い持ちが良いと、なかなかの好評をはくしていた。
商いは小間物にとどまらず。先ほどのように自分を売りつけ遊ぶこともある。金を貰うか貰わないかは相手次第。
これも器量よしの小間物屋が背負う天命。もとい役得だろうと、結城は小間物屋を楽しく、いろんな意味で繁盛させていた。―――そのとき。
「ゆうきーーーー!」
結城の背後からどたどた喧しい足音が響いた。ぎょっと目を剥いてから……ああ、と溜息を吐く。
この色気のない声と足音の覚えはひとつしかない。
「ちょっと結城!ちょっと!」
結城の元へ足元荒く駆け寄ってきたのは、十七、八ほどの年若い娘だった。
「……明里(あかり)、聞こえてるよ。まったく騒がしいな。みんながお前の声に驚いて逃げちまっただろ」
閑古鳥のなくその場で、しかし娘は、「あら、それは悪かったわね」全く悪びれた様子がない。
この娘は、鐘町(かねまち)にある酒屋の一人娘で、名を明里(あかり)という。母親を早くに無くした所為か、中店でぬくぬく育ったせいか、とにもかくにも我が強い。
とうのたつ年頃だというのに未だ独り身で、その上、役者や芝居にうつつを抜かして落ち着きがない。父親が縁談を持ってはくるが、この性格ゆえ、どれもご破算となっているらしい。
最近になって漸く良い男を見つけたが、今のところ娘側の片思い。相手に拾って貰えるも貰えないも、天と仏の采配頼み。という訳だ。
まったく。ひとつき前に雇ったお運び娘は最近嫁に行ったと聞いたのに、この娘ときたら。落ち着き処のないこった。
「で?盛大に呼び止めてなんの用だ」
「なにって、小間物を買いにきたに決まってるじゃない」
「あー……そりゃそうだな」
いやいやしかし。小間物を買いに来たのなら、もっとしとやかに声をかければいいものを。
「まったく、そのお転婆が小間物くらいで隠れるとはとてもとても……いてぇ!いてぇってば!あー悪かったよ!ああもう!なにを買いに来たんだ!」
結城の脛(すね)を蹴飛ばし始めた明里をいさめて箪笥を下ろす。
「おい。なにが欲しいんだ?おしろいか?簪か?それとも紅か?」
たんすの戸をいくつか引いて中を見せてやると、娘はまじまじ眺めた後、「紅をちょうだい」と言った。「あいよ」中をたぐっていくつか紅皿(べにざら、紅をぬりつけ乾燥させた皿。紅を水で溶いて使用する)を見せてやると、「あら?」その内のひとつを見た娘が、ちょいと小首を傾げた。
「この紅、ちょっとみない色ね」
「ああ。それな」
先ほど別の女にも聞かれた事を今度は娘に教えてやる。すると娘は、紅皿を食い入るように見つめてから、ふわっと顔を赤らめた。
「ほんとに?ほんとに、これをさせば、男のひとはひと目で夢中になるの?ねぇほんと?」
どこからどう聞いても眉唾な話だ。しかし娘はしつこく食い下がってくる。
「ええと、まあ、そう言われてるって話だが、本気でそうとは言い辛いってのが、世の中の理っていうかな……」
「いいわ、買った!」
結城から紅皿を奪い取ると、明里はほうと空を眺めながら帰っていった。その様子にしばし首を傾げたあと、「ああ」と手を打つ。
「ありゃ、千早となんぞあったな」
ふん。と鼻を鳴らす。
「まさに、恋はしがちだな」
*
「千早。今度いっしょに芝居を見に行かない?」
―――さりげなく言ったつもりだったが、飛び出そうになる心を押さえるのに必死だった。
明里は今、好いた男を逢瀬(おうせ)に誘っていた。ちょっとそこまで豆腐を買いにいきましょうとか、ちょっとそこまでまんじゅうを買いにいきましょうとか、そんな気軽な話ではない。特別な娯楽を共に見に行こうと誘いかけているのだ。
好いた男―――千早(ちはや)は遡ること初春の季節。親から無理に押し付けられた見合いに嫌気がさして、放り出した矢先に出会った美しいひとだった。
彼の白い肌、桜色の髪、澄んだ夜色の目を見た時、明里は転がるように恋してしまった。このひとしかいない!と胸を鳴らしたあの時を。いまでもつぶさに思い出せる。
千早は、明里の住まう鐘町から西に半時(一時間)歩いた場所にある桜川(さくらがわ)のふもと、桜町(さくらまち)で四文屋(しもんや、値段の安い飲食屋台)を商いしていて、作る料理はどれも四文屋とは思えぬ出来栄えだった。初めのうちは、彼会いたさ、料理うまさに通っていた明里だったが、そのうちふと、―――彼をうちで雇えないかとひらめいた。
明里の父が商いしている酒屋の隣が、とある理由から空家となり、そこを買い付け、小料理屋にしようという話が以前から上っていたのだ。しかし料理人がなかなか決まらずあぐねていた、そんな折に、婿にしたい、かつ、料理の美味い男が現れたのだ。雇えと言っているようなものだろう。
そうと決まれば、(半ば強引に)彼を小料理屋に迎え入れ、ついでに婿にしてしまおう。相手にその気がなくとも、なーに、いずれつかんで見せよう。というのが、明里の思惑だった。―――のだが。
小料理屋、もとい、町にちなんで名付けた「鐘屋(かねや)」に千早を雇い入れてからもうひとつきが経つ。その間、色々な災難に見舞われながらも、明里と千早の店は短い間にちゃくちゃくと繁盛していった。それ自体はもちろん喜ばしい事だ。……だがしかし!繁盛し過ぎた!
その勢いたるや破竹も可愛く。店はしばらくてんやわんやの大盛り上がりだった。
忙しすぎた所為で、明里と千早は仲間としては絆を大きく深めていったが、色恋沙汰はいちもにもない。
かといって、千早への気持ちが冷めてしまったかといえば、そんな事は全くない。むしろその逆だ。
無駄な話が出来ない、色恋に盛り上がれない。その所為で、明里の気持ちは一方的につのるばかりとなっていた。隣にいるからこそ、余計に、だ。
そして卯月となった今、ようやく店は落ち着きを取り戻し、千早とお喋りをする余裕も、少しばかり(店のおつかいではあるが)でかける機会も増えてきた。そのことに、明里は有頂天になっていた。だから。
―――千早と店以外の場所で遊びたい!
当然のように欲が出た。娘なら誰だって、好いた男と傍にいたい
しちょっと遠出もしてみたい。だから誘った。女から誘うなんてはしたない。とは思わなかった。それほど有頂天だったのだ。けれど、誘って直ぐに気持ちがくじく。突然過ぎたかな、とか、千早は芝居なんて好きしゃなかったかな、とか。寄せる後悔が明里の胸をつく。
「……あの、千早は、お芝居なんて興味ないかな」
「え?そんなことないよ。行ってみたい」
怖気づく明里の言葉を、千早がさらりと否定する。ぽかんとしてから、直ぐ。
「ほんと!ほんとに!」相手の着物を鷲掴んで言った。
「ほんとだよ。一度見てみたかったんだよね。けど、ひとりで行くのもなんだし、かといって、誰か誘っていくって程でもなくて。だから、君が誘ってくれてうれしいよ」
「千早、芝居を見たことがないの?」
「……うん、多分」
「多分?」
「いや、見た事ないよ。楽しみだな、何時にする?」
「えっと、えっとね!―――――」
思いのほか相手が乗り気で、俄然やる気が出てしまった。
早速、店を休む日を決め、それを表に張り紙で出しておくと、次の日から、明里は自分磨きに奮闘することとなった。
まず、古着屋と貸し物屋を何軒か回り、太い格子(こうし)が粋な弁慶縞(べんけいじま、人気の柄)を手に入れ、次に、ひいきの髪結い床(かみゆいどこ、美容室)へ寄って、芝居見物に合わせて髪結い(ヘアセット)の約束をしておき、仕上げには、新しい紅を手に入れるため小間物屋へ向かった。
「ゆうきーーーー!」
近所で商いしていた小間物屋を呼び止めると、飛び上がった相手が、ゆっくり振り返る。
この男は結城といって、声よし、器量よしを良い事に、あっちこっちの女と遊んでは暮れるだらしのない男だ。しかし、人柄に目をつむる程度には扱う品(しな)の質が良く、また、職人としての腕も中々なので、なんだかんだと重宝していた。
「ちょっと結城!ちょっと!」
「……明里、聞こえてるよ。まったく騒がしいな。みんながお前の声に驚いて逃げちまっただろ」
振り返った結城が、迷惑そうにひとりごちた。
言われてみれば、結城目当てにわいわい集まっていた女たちの姿がすっかり消えている。「あら、それは悪かったわね」勢い余ったことをきちんと詫びたのに、結城は嫌そうな顔ひとつ浮かべるのみだ。
「で?盛大に呼び止めてなんの用だ」
「なにって、小間物を買いにきたに決まってるじゃない」
当たり前の事を言う相手に指摘してやると、「あー……そりゃそうだな」むっとした後、やれやれと言った風に。
「まったく、そのお転婆が小間物くらいで隠れるとはとてもとても……いてぇ!いてぇってば!」
余計な事を口走るので、思い切り脛を蹴飛ばしてやった。相手が謝るまで、何度も何度も続けてやる。
「あー悪かったよ!ああもう!なにを買いに来たんだ!」
ひぃひぃ声を荒げて箪笥を下ろした結城が、「おい。なにが欲しいんだ?おしろいか、簪か?それとも紅か?」箪笥の引き戸をいくつか引いて中身を見せて来る。その中を、まじまじ覗き込みながら、引き戸を指さし、「紅をちょうだい」とねだった。「あいよ」結城は引き戸から紅皿をいくつか取り出し、並べて見せてくれる。陶器や貝の器に塗り込まれた紅は、乾いた玉虫色(たまむしいろ)が目にも鮮やか。大変美しい。うっとり眺めていると。
「あら?」
ふと、珍しい色に気づいて首を傾げた。
「この紅、ちょっとみない色ね」
「ああ。それな。上方で流行ってるって紅を仕入れてみたんだよ。なかなかいい色だろう?向こうじゃ、この艶の良い色を口にちょいとさすと、男はみんなひと目でそいつに夢中になっちまうって、評判なのさ」
……みんなひとめで、夢中になる。
紅のいわれに、さっと血がのぼる。
「ほんとに?ほんとに、これをさせば男のひとはひと目で夢中になるの?ねぇ、ほんと?」
「ええと、まあ、そう言われてるって話だが、本気でそうとは言い辛いってのが、世の中の理っていうかな……」
「いいわ、買った!」
値段を聞けば、さすが上方で流行っているだけあってまったく安いものではなかった。が、げんを担ぐ気持ちで、高値(こうじき、お高い値段)な紅をその場で買いとった。
結城から紅皿を受け取ると、胸にぎゅうと抱き込み、もう間もなくやってくる愛しい人との逢瀬を想って家路についた。
―――これで準備は万端!
芝居見物当日。明里は眠いを目を擦りながら夜の八つ(午前2時)に起き上がると、尋ねてきた髪結いを板敷(いたじき、板張りの床)に上げ、お気に入りの簪をわたして髪を整えてもらった。
髪結いが帰った後は、仕立てなおした弁慶縞の着物に着替えて鏡台に座り、下地の水を塗り、おしろいを塗り、眉墨(まゆずみ、アイブロウ)をひき、最後に紅をさした。紅は高値なだけあって色もつやも良く、顔だちがいつもより華やいで見えた。これなら確かに、結城の言う通り、ひとめで惚れてくれるかも……。
全ての支度を終えて立ち上がると、明里はそそくさ鐘屋へ向かった。夜七つ(午前4時)の鐘が鳴る前に、店の前にある柳(やなぎ)の下で待ち合わせる予定だった。
そわそわ、髪を撫でたり裾を直していると、程なくして。
「明里、早かったね。待たせたかな」
暗がりから人影が現れた。提灯を持った人影は、明里の待ち人、その人だった。
「ちはや!」駆け寄ると、千早が一瞬目を見開いた。その反応にどきりとする。
……気づいて、くれたかな?
次にどんな言葉をかけられるか、どきどきしながら待っていると。
「その簪さしてるところ、初めて見たよ。似合うね」
――――……えーと。
褒めてはもらえたけれど……あれ?そっち?
確かに、お気に入りの簪だけど、それだけ?
もっとこう、今日の髪型は素敵だねとか、何時もより肌が白くて綺麗だねとか、紅が色っぽいねとか、粋な弁慶縞だね、とか……。
そういえば、紅の、ひとめ見て惚れる効能はどうなったんだろう。
「……千早。あたしね、今日は紅をさしてるんだー?」
「え?ああ、そうなの?そういえばちょっと腫れぼったいね」
……腫れぼったい。
結城め!なにがひと目みて惚れる紅よ!だましやがったわね!
……いや、眉唾だってわかってたけど!それでも期待はしたかったっていうか!これじゃ普通の紅つけたって一緒じゃないっていうか!
ええいとにかく!今度会ったらただじゃおかないんだからね!
「それより、もう行こうか」
悔しい気持ちに苛まれていたが、明里にちっとも構わない千早を見ている内に、だんだんと気が抜けてきてしまった。
……まあ、いいか。
これから千早と芝居を見に行くことには変わりないし、ちょっとだけどほめてもらえたし。それに、此処で機嫌を損ねて、せっかくの一日を無駄にしたくない。
「―――千早、まって!」
不服な気持ちを追い払うと、先に行く千早の背を追いかけた。
*
暁の七つ半(午前5時)ごろ。もう少しで夜の明ける市中(しちゅう、まちなか)は、閑散とした空気に嘗め尽くされ、人通りもぱらぱら、少なかった。
芝居町、もとい犬老町(けんろうちょう)は、鐘町から東に半刻(はんとき、約1時間)歩き、そこから北に曲がって男橋(おとこばし)を渡ったところにある。明里の足で度々通えるだけあって、鐘町からはほど近い。
しゃべりながら半刻歩き、知らぬ間に男橋を渡ると、それまで閑散としていた通りに段々と人が現れ始めた。それは徐々に大きくなって、犬老町の表通りに出る頃には、お互いの肩がぶつかるほどの賑わいに変わっていった。
芝居町の表通りに立つと、大きな芝居小屋が軒を連ねて明里たちを出迎えた。御上(おかみ、幕府)に許された櫓(やぐら)を誇らしげに掲げて、その下では、名題役者の名前を染め抜いた幟(のぼり、のぼり旗のこと)が立ち、表には絵看板やたくさんの提灯が並んでいる。
看板の下には俵(たわら)や樽(たる)が、長屋ひとつでは食べきれない、飲み切れないほど積み上げられていて、芝居小屋の繁盛ぶりがいかに素晴らしいかを体現していた。
「さてさて、これより恒例でありまする、役者様の声色をまねいたしましょう」
「して、お前様はどなたを真似られると?」
「当座の名題役者、中條陶衛門(なかしのとうえもん)でござーい」
「それはいちだんとようございましょう、さあ、真似られるがよろしい。さあ!」
小屋の真ん前で、木戸芸者(きどげいしゃ、芝居小屋の前で二人組を作り、本番前の説明や景気づけを行った芸人のこと)が鳴りもの(太鼓や笛の音)を背に声を張り上げている。客たちはその前に群がって、彼らの噺(はなし)に逐一笑い声を上げた。これだけの喧騒を早朝に聞けるのは、芝居町のほかありえないだろう。
「近くを通った時に少しばかり覗いた事はあったけど、間近で見るとすごいね……」
音と色にあふれた町を見上げて、千早が唖然と口を開ける。初めてここにきた時、明里も同じようなかっこうで町を見渡したのを思い出し、つい忍び笑いをしてしまった。
「それで。今日はどの芝居小屋で見るの?」娘に笑われた事を恥じたのか、千早はさっと口を閉じて目を逸らし、三つ並んだ芝居小屋に目配せを始めた。
目の前に並んだ大芝居小屋は、手前から順に、市盛座(いちもりざ)、中川座(なかがわざ)、森石座(もりせきざ)と言い、これらは明里が産まれる前まで、犬老町より三里(約12キロメートル)離れた城下ちかく、市盛座は坂田町(さかたちょう)、中川座は芦挽町(あしひきちょう)の隣り合わせ、もう少し離れて森石座は木立町(こだちちょう)にあったらしいが、市盛座と中川座が火事で焼け落ち、新たに芝居小屋を普請(ふしん、建設のこと)する際、御上が芝居小屋を別の町へ移すよう命じたらしい。森石座も巻き込んで、三つの芝居小屋はその後犬老町に普請された。
年寄りが言うには、「御上は芝居を毛嫌いしていた為、火事を機に芝居小屋を城下から遠ざけたのだろう」とのことだが、まあそんな昔のことは、今を楽しむ明里たちには関係のない話である。
芝居小屋の前では、早くも人の列が数珠のように出来ていた。少しでもいい席を取ろうと、みな張り切って並んでいるのだろう。
「市盛座にしましょう」明里は、左手にある市盛座をさっと見上げて、指さした。指の先には、ひいきの役者である「中條陶衛門」の幟が、ぱたぱたと、風を受けて優雅にはためいている。此処にひいきの役者がいて、彼の芝居を見たいんだと言えば、千早は「分かった」とうなずいてくれた。
早速、市盛座の仕切り場(しきりば、向かって左寄りの一段高い部屋。主に会計事務を扱った場所)に半刻ほど並んで木戸銭(きどせん、チケット代)と敷物代(しきものだい)を払うと、中に入って平土間(ひらどま)の升席(ますせき)に座った。本来ならば四人で座るところを二人で座ると、たいそう贅沢な気分になる。両隣では、少しでも木戸銭をけちろうとしたのか、四人席を六人で使い、ぎゅうぎゅうになっている。
「なんだか僕たち、肩身が狭いね…」自分たちの席の余裕ぶりに申しわけなくなったのか、千早が微妙な声を出す。が、そんな事は気にするなと一蹴した。同じ木戸銭を払っているのだ。やましいことなどなにひとつない。
桟敷席(さじきせき、小屋の左右、二階に作った上等の見物席のこと)から升席まで人が入ると、いよいよ喧しくなってくる。とくに、向こう桟敷(むこうさじき、最奥の二階席のこと、一番遠いのでチケット代が安く、常に混んでいる)などは、人が押し合いへしあいしている所為でいっそうやかましい。けれど。
―――チョン、チョン、チョン。と、幕開けを知らせる拍子木(ひょうしぎ、打ち鳴らして使う、二本の小さな木)の澄んだ音色が響き渡ると、皆一斉に静まり返った。
音が止み、閉じていた引幕(ひきまく、横にひいて開閉する幕)がさぁっとひかれると、中から豪奢な衣装をまとった役者が現れた。初めの口上を、艶のある声で張り上げ、ゆっくりと舞い踊り始めると同時に、涼やかな笛と太鼓の鳴り物が、さらさらと耳に流れ込んできた。
「どこにも笛や太鼓は見当たらないけど、どこで吹いているんだろう」
千早が舞台を見ながら、不思議そうに首を傾げる。
「あそこ、あそこよ」明里はちょいと指を上げて、役者が衣装の袖をえいと振り上げている、その横を差した。
「舞台の左右に、戸が立っているでしょう?あの後ろに、鳴り物役は太鼓と笛を持ち込んでいるのよ」
「へえ。上手く出来ているもんだな。それに、着物がすごいね。あんなに飾りがついて、重くないのかな。あと、後ろの絵も凄いね。あんなに大きな絵は始めてみたよ。そうか、あれは風景を表しているんだね。それに……」
どうやら、千早の興味は役者や芝居そのものより、舞台の仕掛けや役者の衣装などに向かっているらしい。料理人なので、目につく場所が明里とは少し違うのかもしれない。
そういえば、器がどうとか、野菜の出来がどうとか、そんな話をしている時の様子と似ているような気がした。
細かくいろんなものを見てはひとつひとつ感心する彼の目を追うたび、見慣れているはずの芝居小屋に新鮮味を感じた。そんなところ、見て無かったなぁとか、言われてみればあの飾り付けや、仕掛けがとても凝っている。とか。
なにより、何時にない楽しさを彼がくれるというのは、それだけで尊いものだとしみじみ思った。
一部の世話物(日常生活や人情ものの芝居)が終わると。
「おべんとー!おべんとーぅ!おべんとぅはいらんかねー」
弁当売りがやってきて、小屋の近くを練り歩き始めた。
「千早、ちょっとまっててね!」
立ち上がり、忙しないひとなみをかいくぐって外に出ると、饅頭、幕の内弁当に、奮発して鮨(すし)も買った。
食べ物をもって千早の元へ戻ると、早速、包みを開いて中を見せた。
「こんなに?いくらだったの?」
驚きながら、自分のお代を出そうとする千早を押しとどめて、「それより食べよう!」と、たべものに手を伸ばす。
「やっぱり、芝居と言ったらかべすだよね」
「かべす?」
「お菓子、弁当、鮨を食べるときの頭文字だよ。芝居を見るときは、贅沢にかべすを揃えるの」
「ああ、なるほど」
「これぞかべす」に千早が膝を叩く。更に「上手いね」と言われれば、嬉しくならないわけがなかった。
早速開いた幕の内弁当の中は、握り飯、かまぼこ、卵焼き、焼き豆腐、こんにゃくが詰められていて、口に含むとぜいたくな味がした。
千早といえば、弁当を口にするなり固まって、「美味い……」とか「この味付けはどうやって」とか「この卵焼き、ふわふわだな。どうやったらこんな風になるんだろう」とか「そういえば武流先生が新しい卵料理の本が出たって言ってたな。また本を借りてこないと……」とか、考え込み始めてしまった。その横顔を見ながら、ほんのり口元に笑みを浮かべる。
千早はなんでも仕事に……いや、料理に結び付けてしまうところがある。とにもかくにも、料理が好きな性分なのだろう。それを野暮ったいといえばそれまでだけれど、明里は、彼のこういう姿を可愛いと思っていた。
器量よしの顔に飯粒をつけた彼を優しく眺めながら、これをあとで取ってあげられるのは、隣にいる私だけ。その役得に、心の中でほくそ笑んだ。
*
夕の七つ半(午後5時)には、幕がひかれて芝居が終わった。観客はみな、おもいおもいに立ちあがると、夕日の差し込む出入り口に向かっていった。明里たちも、敷物(しきもの)を片づけながら席を後にする。
千早に、先に表に出ているようお願いすると、預けた提灯を返してもらう為仕切り場に向かった。無事提灯を受け取ると、次に後のことを考え始める。
芝居の後と言えば、やっぱり芝居茶屋(しばいぢゃや、芝居見物の案内、世話をしたり、休憩、食事なども出来る茶屋)で夕餉(夕飯)だろう。
千早のことだ。今から芝居茶屋でご飯を食べるとなれば、目の色が変わるかもしれない。
さて、そうと決まればどこに入ろうか。芝居茶屋といっても料理の得意はそれぞれで、蕎麦の美味い店もあれば鍋の美味い店もある。
……いやいや、此処はやっぱり、千早に聞いてからの方が良いわね。
「千早!ちはやー!お待たせ!今からご飯を食べにいきましょう!」
さっそく表に出て、待ってくれている人の姿をあちこち探すが。
「……あれ?」
千早の姿はどこにも見当たらなかった。もう一度、くまなく探すがやはり見当たらない。
念のため、芝居小屋に戻って似た人に声をかけるも、誰一人当たらない。厠(かわや、トイレ)へ行ったのかと、芝居小屋の奥を訪ねてみるが、とんと出てこない。
もしかすると、店先を覗いているのかもしれない。そう思って、傍にある芝居茶屋を何軒か覗き込み、尋ねてみるが見つからない。
そんな事を何度も繰り返している内に。
「……やだ、はぐれた?」ようやく現状を理解する。
さあっと蒼褪め、うろうろ、目当てのなくなった通りをうろついた。芝居が終わって半刻もすれば、表は捌けた人で埋めつくされる。色んな人と肩をぶつけながら、明里はいよいよ途方に暮れてしまった。
千早が見つからないまま、空がどんどん暗くなり始める。これ以上、夜道をあてもなく探すのは危ないかもしれない。さて、どうしようかと空を見上げた時。
……そうだ、男橋のところで待ってみようか。
鐘町と桜町に戻るには男橋を渡る必要がある。そこで待っていれば千早と行き合えるかもしれない。千早が何時、男橋を渡るかは分からないけれど、あてもなく彷徨っているよりはましだろう。
明里は芝居町から離れると、来た道を戻って男橋に向かった。
橋の袂(たもと、きわ、はじ)につくと、そっと膝を抱えて近くの草木を積み始める。こんな風に手でも動かしていないと、どうにも落ち着かない気分だった。
気まぐれな手慰みに夢中になっていた、その最中。
――――ぼちゃん!
「…………?」
背後で水の跳ねる音が聞こえた。川魚でも跳ねたのだろうか?いや、もっと大げさ音だったような……。
音の所在が気になり、立ち上がって川を覗き込むと、ちょうど、橋の足辺りで不自然な水面を見つけた。もう少し、首を伸ばして覗き込もうとしたが。
「あかり!」
自分を呼ぶ声に、はっと立ち上がる。声のした方を振り向くと、提灯の灯りと共に、誰かがせわしなく近づいてきた。目の前にまでくると、提灯の灯りが、その人―――千早の顔を映しだす。
「ちはや!」再開を喜び、空いた方の手を握りしめる。
「良かった!見つかって!何処に行っても見当たらないから、もしかしたら此処にくればその内会えるかなって思って…っ」
「私もそう思ったの!良かったわ、早くに会えて」
「……ごめん!君に表で待ってろって言われたのに、僕、その、他の芝居小屋とか、茶屋の軒先が物珍しくて、ちょっとだけ覗き込んでたら……君と入れ違いになっちゃって。心配かけたね。本当にごめん。君がもし人さらいにでも会って居たりしたらと思うと、気が気じゃなくて……」
「やだ!そんなの大丈夫よ!私みたいな器量なしの年増なんて、さらったところで売り物になりゃしないわ!」
……なんて、自分で言うとちょっと悲しくなってくるわね。
気を取り直し、千早の腕を掴むと、月の傾きを見るため空を見上げた。
あの傾きならばまだ暮れの六つ半(午後7時)くらいだろう。蕎麦のいっぱいくらいは食べていけるかもしれない。
「千早、ね、ちょっと」
掴んだ腕に力をこめて、芝居町の方へと千早をひっぱる。「蕎麦でも食べて行こう」と、口にしかけた時。
――――ぼちゃん、ぼちゃん!
「……!」川の方から再び音が鳴った。驚き振り返ると。
「……ひっ!」
川べりから、人の腕がべったり這い出ているのが見えた。
「きゃぁあぁああああああ!」
思わず、悲鳴を上げて千早に抱き着くと、骨ばった腕がさっと、かばうように肩を抱きこんできた。
「ちはや!お、おばけ!おばけが居る!やだ、なんであんなところに!」
「………いや、様子がおかしい」
「なにがぁ…?」これ以上おかしなことなどあるものかと、べそをかく明里から、千早がさっと腕をひく。
「やだ、怖いから離れないで!」咄嗟にすがろうとしたが。
「ちがう、おばけじゃない!」
「え?」
「生きてる!」
千早はそう叫んで、川べりに駆け寄ると、腕の這い出た場所に半身を傾けた。ざぶん!と手を突きこみ腕を引っ張り上げると、頭、肩、胸が次々あらわれ、最後に、生白い足が地面に横たわった。
「大丈夫ですか!」千早が、引き上げた人の頬を強めに叩くと、「……う、」暫くして、弱々しい声が夜風を揺らした。
明里も、おそるおそる近寄り窺うと、背の高い男のずぶ濡れた姿が目に映った。弱ってはいるが、千早の言う通り生きているようだ。しかし。
「……これは!」
「やだ……!」
千早が男を抱き起そうとした時、彼の背中が、肩から腰にかけてばっさり斬られているのを、ふたり同時に見つけてしまった。
「なんでこんな怪我を……」悲鳴を飲み込んだ千早が、くっと眉を顰める。
「いや、とにかく、こんなところに放っておけないね。武流先生のところへ連れて行こう。悪いけど、明里は提灯を持ってくれる?」
「わかった!」提灯を拾い上げると、千早の足元を照らすため先導を務める。
もうすっかり暮れた空の下、奇妙な連れを担いだ千早と明里は、蕎麦を食べることなく芝居町を後にした。
*
明里達が向かったのは、鐘町から小半刻(こはんとき、約30分)はなれた場所にある貸本屋兼診療所だった。
この貸本屋兼診療所は、うすきみ竹林(薄気味わるい竹林)とよばれる竹藪の傍にぽつんと建っていて、その、辺境な場所に住み着いている家主の名を「武流(たける)」といった。
武流は、居待ち(座ったまま待つこと)の貸本屋を商う傍ら、医者もやっており、若いながら腕は大変よろしく、またひと辺りも良いと評判で、明里と千早も、いつぞやはお世話になった仲であった。
「武流先生!夜分にすみません!いらっしゃいますか!」
「その声、千早さんですか?こんな夜更けに珍しいですね。……あれ、血の匂いがする。怪我人がいるんですか?」
「そうなの武流君!さっき男橋のほうでね……っ」
「明里ちゃん、千早さん。とりあえず中に入って。怪我人を揺らさないように、そっとね」
貸本屋件医療所、もとい「竹林堂(ちくりんどう)」に駆け込むと、武流は嫌な顔ひとつせずふたりを出迎え、さっそく、怪我人用の布団を引いてくれた。
「おや。これは派手に切られたね。どれどれ……」
武流は、たすき(袖をたくしあげる為のひも)で袖を縛ると、濡れ鼠(ねずみ)となった怪我人の着物を乱暴に脱がせ、手燭(てしょく、持ち歩ける小さな燭台)で傷の具合を眺め始めた。押したり、撫でたりするので、流れる血が武流の手をしとどに濡らす。
切られた男はいまだ目を覚まさず、時折、呻いてもらす声は苦し気だ。
「……うん。見た目よりは深い傷ではありませんね。命に関わるような事にはならないでしょう。すぐに縫い合わせますので、千早さん。手伝って頂けますか?」
名指しされた千早が、はい、と頷き、たすきを借りて自分の袖をまくった。
「明里ちゃんはもう帰って大丈夫だよ」
「ひとりで帰れるよね?」
千早の心配に、うんと頷く。何か手伝いたい気持ちもあったが、頼りにされなかった以上、邪魔せず帰るべきだろう。明里は二人に背を向けると、挨拶もそこそこに武流の家から去って行った。
明里の足がうすきみ竹林から遠ざかっていく。その最中。
「きゃぁああぁああ!」
男の悲鳴が辺りに響き渡る。どうやら、縫合(ほうごう)が始まったようだ。
割れんばかりの雄叫びは、歩けども歩けども響き渡り、その都度耳をふさぎながら、明里はひとり闇夜の帰途をそそくさ歩いた。
*
次の日、千早は鐘屋にきて早々、「あの人は暫く武流先生が預かってくれるらしいよ」と報告してくれた。「分かった」と頷き、もう少し日が経ってから男の様子を見に行こうと、話合って決めた。
それからしばらくして。
「武流くーん、おはよー。あれからどうー?」
鐘屋を開く前。千早とうすきみ竹林に向かい、貸本屋の戸を開いて中を覗いた。しかし、武流の姿はとんと見当たらず、代わりに、板敷の上に誰かが寝そべっているのを見つけた。どうやら眠り込んでいるようだ。
「いないね」
「うん、出かけてるのかな」
帰ろうか、と、どちらかが言いだす前に、突然、寝そべっていた誰かがむくりと起き上った。どうやら、明里と千早の立てた物音で目を覚ましたようだ。
「あいたたたっ……」起き上がって直ぐ、男は声を上げてうずくまった。
「ああ……まだ無理か」
男は、あだっぽく垂れた目元と、桃色の口元が大変色っぽい美丈夫だった。その麗しさに思わず見とれてしまったが、ふと、この美しさに見覚えを感じ、ちょんと小首を傾げた。
考え込むことしばらく。
「………あ!」
思い当たって声を上げる。
間違いない。間違えようがない。この顔は。
――――市盛座の名題役者、中條陶衛門!
ひいきの役者を目の当たりにし、驚き果ててしまう。
そんな明里の様子には気づかず、男はひょいと背を下ろすと、二人のほうへゆっくりと振り向いた。
「せんせいのお客さんよね?ごめんなさい、先生、急患があるからってさっき出て行ったばかりなのよ。いつ頃戻ってくるかもアタシじゃ分からなくて……いたたたっ」
下ろした背の置き場が悪かったのか、男はしゃべるのを止めて再び寝転んだ。
「……ねえ明里。この人あの時の」
茫然としている明里に、千早がこそっと耳打ちしてくる。一瞬、何のことか分かりかねたが。
「あ、そっか、あの時の」直ぐに思い当たる。
あの時とは、あの夜のことだ。
しかし、なんてことなの。助けた男がまさか、名うての役者。中條陶衛門だったなんて……。
「ねえアナタたち、せんせい、いつ帰ってくるか分からないから、出直してきた方が良いと思うわ」黙り込んだ二人にむかって、男が片手を振って見せる。
「いや、僕たち貴方のお見舞いにきたんだ」男の言葉を、千早が繋いで返す。と。
「え?……ああ!それじゃあ、アタシを助けてくれた娘さんと男の人って、アナタたちのことなのね!」
男は再び、半身を勢いよく起こそうとした。が。「いたた…っ!」直ぐ、背中をかばってうずくまる。「ああ、そのままで良いですよ」千早が慌てて声を添えた。
「ごめんなさいね、恩人の前だっていうのに寝転んだままお構いも出来なくて……とにかく、上がってちょうだいな。先生のおうちですけどね」
言われた通り、慣れた貸本屋の板敷に上がると、千早と明里は並んで男の傍に寄り添った。
「あれから傷の具合はどうですか?」千早が上から尋ねると、男が、にっこり、愛想よく笑う。
「ええ。ものすごーく痛いけど、先生が、酷く深いところまでは切れていないから、十日もすればある程度は塞がって動けるでしょう、治りは早いですよ。って言ってくだすったわ」
「あの、貴方……中條、陶衛門、よね?」こわごわ尋ねてみると、男は直ぐ、「ええ。そうよ」と頷いた。
「中條陶衛門?それって、明里が好きだって言ってた役者の名前だよね」
「う、うん。そう……」
「あら?お嬢さんアタシのひいきなのね?ありがとー。これからもぜひひいきにしてちょうだいね」
「………はい、もちろん」ふたつ返事をしながら、考える。
―――中條陶衛門といえば、稲荷町(いなりまち)から一代で名題役者に上り詰めた実力派の女方(おんながた、女装)役者だ。
恵まれた器量と良く通る声を持ち、演技は玄人(くろうと、達人のこと)。男女問わずの人気者。
千両役者(せんりょうやくしゃ、たくさん稼ぐ役者のこと)になる日も近いと噂される役者が、何故川の中にいたのか。それも、背中を斬られた状態で。
「陶衛門さん。どうして川に落ちていたんですか?その、背中の傷も……」
明里よりも先に、千早が陶衛門に疑問を投げる。
「うーん。それがね、話せば長くなるんだけど……」
寝そべったままの陶衛門が、布団に爪をたてながら、とつとつと語り始めた。
「実はね、アタシ、去年の暮れに中川座の座元(ざもと、芝居小屋の持ち主のこと)から、移籍の誘いを受けていたの」
陶衛門いわく。暮れのひと月前に病没した、中川座の立女形(たておやま、女方役者の最高位)、二代目鐘石朱璃(かねいしじゅり)の後釜を、陶衛門がつとめてくれないかと頼み込まれたらしい。
しかし、既に市盛座で契約を結んでいた為、不義理は出来ないと誘いを拒んだ。が、座元の熱意たるやあつくしつこく。暮れても明けても、晴れても降っても誘われる内、とうとう陶衛門の方が根負けしてしまった。
夏の始めには移籍する事をしぶしぶ承諾し、話はいったんまとまった。かのように見えたが。
「無理な移籍だったからね。どっかで軋轢(あつれき)生むんじゃないかって思ってたんだけど、案の定このざまよ」
「そんな。斬られる程の話じゃないでしょう」
「いいえ。芝居の界隈(かいわい)じゃよくある話よ。いまアタシが生きてるのは、運が良かったからでしょうね。
しっかし、誰に斬られたのかしら。移籍の話を受けたって市盛座の座元に話したら、かんかんに怒っていたから、その辺りかしらねぇ。
まあ、他にもあっちこっちで怨み買ってるから、別口も考えられるでしょうけど。……ま、とにかく、そんな訳で傷が治るまでは武流先生のところで厄介になる事にしたわ。皐月(さつき、6月21日~)狂言(きょうげん、芝居の出し物のこと)の襲名(しゅうめい、名前を継ぐこと)式までにはなんとか治さなくっちゃね」
陶衛門の話にキリがついたところで。「あれ?お客さんがいらっしゃってるんですか?ああ、明里ちゃんと千早さんでしたか」ちょうど、竹林堂の持ち主が戻ってきた。
「あら先生!おかえりなさーい!」
陶衛門がひらひら手を振り、寝そべったまま武流を迎える。明里と千早も続いて会釈しようとしたが。「――――あ!」朝五つ(午前8時)の鐘の音に気付き、慌てて立ち上がった。
「千早!もう行かなきゃ!ごめんね武流君、お店があるからこれでお暇するわ!」
「え?うん。分かった。気を付けてね」
ばたばたと、千早を連添い竹林堂を後にする。最中。
「あらあら。忙しないわねぇ」陶衛門の、のんびりした声が尾について、消えた。
*
夕七つ(午後4時)過ぎ。客のいなくなった鐘屋を閉めてからもう一度竹林堂へ向かった。目当ては勿論、中條陶衛門。見舞い、というよりは、贔屓の役者みたさの、野次馬と好奇心だ。
「……ごめんくださーい」
竹林堂の戸をたたき、そっと中を覗き込むが武流の姿が見当たらない。どうやらまた出かけているようだ。もう少し覗くと、板敷の隅のほうで眠る陶衛門の姿を見つけた。高鳴る胸を押さえながら、そそくさ、陶衛門に近づく。
化粧と髪を落とした陶衛門の姿は、芝居や絵で見るほど女性らしくはなかった。むしろ、広い肩や肉の筋が際立って妙に男くさい。こんな姿はおそらく、千両払えどなかなか見られまい。そう思うと、知らず、見る目に力がこもった。
「……ちょっと。そんなにまじまじ見ないでちょうだい。穴が空いたらどうしてくれるの?」
突然、陶衛門のまぶたが開いた。
「ひっ!」声を上げ、後ずさろうとしたが。
「待ちなさい。人の顔遠慮なくながめて詫びのひとつもないわけ?」
鋭い眼光にさらされ、身体がこちんと固まってしまった。
「あ、あ、あ!あの!」
謝ろうとしたが、固まった喉がなかなか動かない。声を裏返す明里を相手は暫く眺めていたが、「やだわぁ」ふと微笑んで、片手を振った。
「そんなに怯えなくてもいいわよ。ただ、何か御用があったんなら、声をかけてくれれば良かったのに。何も言わずに人の顔じっと眺めるんだから、失礼でしょ?って、言いたかっただけよ。別に怒ってる訳じゃないわ」
「ご、ごめんなさい……」
「……あら!よく見るとアナタ、今朝の娘さんね!やだわアタシこそ恩人に失礼なこと言って。ごめんなさいね。ほら、上がって上がって。先生のおうちですけど」
「は、はぁ……」気さくに誘われ、戸惑いながら板敷に上がる。
「そういえばアナタ、……っていうのもよそよそしいわね。娘さん。お名前はなんていうの?」
「明里です」
「そう。明里ちゃんね、覚えたわ。ねぇ明里ちゃん、唐突で悪いんだけど、アナタ今時間はある?」
「え?まあ、ありますけど」
「よかった!それじゃあ、いまから付き合ってくれないかしら」
「なにを?」
「ひまつぶし。ここんところ、ケガのせいでなーんにも出来なくて、死ぬほど暇だったのよね」
死にかけただけにね。
そう言って、陶衛門は口と目元をにっこり、半月のかたちにゆるめた。
続きは本紙でお楽しみ下さい。
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