「一等星/かえる奇譚」
皐月(さつき、5月)を過ぎ、水無月(みなづき、6月)を間近に控えたとある日の朝。
鐘町(かねまち)の棟割り長屋(むねわりながや、アパート)に暮らす小間物屋(こまものや、雑貨屋)の結城(ゆうき)は、そろえた顔料(がんりょう、絵の具)の前で腕組みしていた。
この時期。梅雨を越えると季節はますます盛りを迎えて、暑く猛っていく。
この時期。飛ぶように売れる小間物(こまもの、雑貨)といえば、風鈴に他ならない。
風鈴、とひとくちに言えど、その種は様々値も様々。
結城が手掛ける風鈴は「土風鈴」と言って、上質な器を作るさい使用する土を、風鈴のかさにあつらえるものだ。
びいどろ(ガラス)ほど美しい音はないが、土壁特有の、ころんころんという音が好ましい。
結城は毎年土を仕入れると、作ったかさの表に手ずから絵を描いた。
草の絵。花の絵。雨の絵。かさによってひとつひとつ違う絵付けをし、これが毎年好評で、中には二つ、三つ買っていく客もいる。
今。かさは出来上がっていて。あとは絵をつけるのみ。
「……よし」絵の構想が終わると、ソデをたすきがけして筆をとり、顔料の入った皿にしずめる。
かさをひとつ手にとると、構想したばかりの絵をかさに描いていく。
蒸し暑い長屋で集中すれば、当然、汗がしたたる。
ときどき、塩辛い水が目に入らないようぬぐいながら。
――――陽が沈むころ。
「…………できたーーーーー!」
最後のかさを塗り終え、歓喜の声をあげる。
「やったできたー!」出来上がったばかりのかさをけとばさないよう気をつけながら、板敷(いたじき、板で出来た床)の上をばたばた転がる。
大変だったけれど、小間物づくりには達成感がともなう。これがまた格別心地いいのでやめられない。
「さーてそれじゃあ、知り合いに配るぶんだけよけときますかね」
体を起こして再びかさを手に取ると、「えーと、これは明里のところで、こっちは千早、こっちは朱璃で、これは武流……あ、そうだ」
ついでにほかのことを思い出す。立ち上がると箪笥(たんす)の引き戸に手をかけ中身を漁り、描きかけの本を取り出した。
紙から仕入れて手ずからとじた本だ。それを手に顔料の前に座ると、結城は再び筆をとった。
さきほどよりも気軽に手を動かし、本の中に絵を描きこんでいく。夜になったら油に火をつけて灯し、描き込み続けること一晩。
「……よっしゃ!こっちもできたー!」夜なべして作った本を掲げてみせる。風鈴と良いこれと良い、我ながら上出来である!
早速、風鈴をひとつ、本を一冊風呂敷に包み長屋を出る。向かうのは、鐘町の端にひっそりと建つ竹林堂(ちくりんどう)だ。
竹林堂は、武流(たける)という結城の友人が主人をしていて、貸本屋と医者をかねてい商いしている。
奇怪な取り合わせだとは思うものの、これが上手にまわっているものだから、商いとは不思議なものである。
竹藪(たけやぶ、竹林)のそばを歩き抜けて、友人の仕事場兼自宅の前に立つ。
戸をつかみ。「おーい武流!いるかー!」がらりと引けば、「うわっ!」本を読んでいたらしいその人が、びくりと肩を震わせた。
「なんだ。結城か。あいかわらずいきなり来るね」
「わるいわるい。良いもん出来たからよ、届けにきたんだ」
上がり框(あがりかまち、玄関の段差)に腰かけて、板敷の上に風呂敷を広げて見せる。
風鈴をつまんで、「ほら。今年もできたよ」武流に渡して見せると、迷惑そうな顔が一転、「わあ!ありがとう!」やわくほころんだ。
「雨の絵の風鈴か。めずらしいね」
「梅雨あけに雨を飾るっていうのも、オツなもんだろ?」
「うん。その通りだ。いいねさすが結城。趣味が良い。早速飾るよ。ありがとう」
「どういたしまして」
いそいそ、風鈴を軒先に飾る友人のかたわらで、今度は本を手に取り、「ところで武流。こっちはどうだ?」振り返り際に差し出した。
「え?なになに?」ご機嫌だった友人が、受け取った本を開くなり、「……うわぁっ」また一転、嫌そうに顔をしかめた。
「春本(しゅんぽん、エロ本)じゃないか。陽の高いうちになにを見せてくるんだよ」
「俺が描いたんだよそれ」
「えええ?」驚きと軽蔑と、ちょっとだけ感心を混ぜた目でにらまれる。
「君、仕事がら絵がうまいとは思ってたけど、春本なんて描けたの?」
「いや。風鈴つくるために顔料仕入れたんだけど。これが余るんだよね結構。で、ついでだし、こういうのも描けるんじゃね?と思って描いてみたのよ。話の種なら腐るほどあるしな」
「ただれた話題はよしてくれよ。よくもまあ春本つくれるほどシモが緩いくせに刺されて死なないもんだ」
「まあまあ。それよりどう?素人が作ったにしちゃ良い出来だろ?せっかくだし、ここにおいてよ。武流」
「ええええ」
「別にいいだろ?お前んところだって、春本くらい置いてるじゃないか」
「まあ、あるけどさぁ……友人のやつ置くってのはねぇ。商売としてどうなんだろう」
商売のためであって、春本を置くのは趣味ではないと言いたげな友人だが。お前の好きな絵師が描いた春本ばっかり並んでるのわかってるんだからな。
「なに?」
「なんでもなーい。
な?おいてよ。貸し賃を折半してくれなんて言わないから。
せっかく作ったし、誰かに見てほしいんだよ、俺」
本は棚にあってこそだろ?と言えば、少し考えたあと。「それもそうか」と納得してくれる。
「ま、置くだけ置いてあげるよ。借りられるかどうかはこの本次第だね」
「ありがとう武流。誰か借りてくれたら教えてくれよ」
「わかったわかった」
仕方ないなと笑う武流が、竹林堂の奥に並ぶ本棚に近づき結城の本をさしこんでいく。そのさなか。
「ごめんください。先生はいらっしゃいますか」戸のほうで声がした。困り顔で中に入ってきたのは四十がらみのやせこけた中年男。様子からして、医者の武流に用があるのだろう。
「それじゃ、武流。俺帰るわ」
「分かった。ごめんねお茶も出さずに」
「いいよいいよ。仕事がんばって」
「はーい」
軽口をたたきあってから、客と入れ替わりで外に出る。
一歩踏み出したとき、「あれ」ぽつりと雨が降り出して、ややあと空をあおいだ。ひと雨きたな。
行って帰るくらいならふらないだろうと高をくくっていたが。これは濡れて帰るしかないか。
雨の中を走ろうと決意したその時、背後から「結城!」武流が顔を出す。
「おう、どうした」
「どうしたじゃないよ。はいこれ。傘。返すのいつでもいいから」
「お。ありがとなー」
突き出された傘を受け取り、開いて肩にかける。
降り始めた雨がかさの油紙につたうと、この時期ならではの匂いがした。
☁
風鈴を届けて三日後。梅雨時にはめずらしく、カラリと晴れた晴天の日。
本を借りにいくついでに返しにいくかと、武流の傘を手に長屋を出る。
おなじみの竹藪を通り、「おーい。武流ー、いるかー?」竹林堂の戸を叩く。が、返事がない。
なんだ。出かけてるのか。それじゃあ傘だけ置いて帰るかと、思いかけたそのとき。
すぱん!と、独りでに戸が開く。何事かと思いきや。「ゆうき!」貸本屋の主が血相変えて飛び出してきた。
「お、おう。なんだ武流。いたのか」
「ちょうどよかった!」
かみあわせの悪いあいさつの後。「とにかく入って!」ぐいぐい店の中に押し込まれた。目を丸くしているうちに、上り框にどんと座らされる。
「な、なに?どうかしたのか?武流」
「銀次郎さん!彼ですよ!彼!」
「おお!あなたですか!」
武流が叫んだとたん、結城のとなりがどん!と震えた。尻を框につけたのは、歳は四十がらみ。ひょろりと痩せ、声は上方(かみがた、関西地方)なまりの男だった。
にこにこ、愛想の良い顔を近づけられたじろぐ。なにをご機嫌そうにしているのやら。
戸惑っているうちにがしっと両手をとられた。ますます身が引く。
「いやあ!先生!お会いしたかったんですよ!」
「え、や、え?お間違えですよ。先生はうしろの、ほら、武流せんせ」
「ご謙遜されんでぇえ!あれほどの本を描かれていらっしゃるっちゅうのに!」
「んんんん?」
話の筋がよくみえず、「ちょっと助けて」と武流を見れば。「あー。やっと離れてくれた……」友人はごきごき、肩を鳴らしているところだった。
「お、おおい武流。ちょっと説明してくれよ。なんで俺、おっさんに熱く手をにぎられて、先生とか言われてんの?」
「ああ。ごめんごめん。引きはがすのに必死で筋を話してなかったね」
武流は、結城の傍に座ると「あのね」と、仔細を話し始めた。
武流いわく。
この男は、上方と江戸ではちょっと名の知れた版元(はんもと、出版社)の「漫遊堂(まんゆうどう)」で働く番頭(ばんとう、店長)さんとのことだ。
「ああ。漫遊堂か」
結城も名前は知っている。最も、店の敷居が高いので入ったことはない。
そんな番頭がなぜここにいるかといえば、以前から腰に持病があり、武流の診察を受けていたとのことだ。
最近も、梅雨のせいか痛む腰を抱えて竹林堂に赴き診察を受けていたらしい。ただ、医者に通うとなれば、当然待ち時間が出来る日もあって。そんな時、仕事病というのか、この銀次郎という男は竹林堂の本を物色していたらしい。
その際、おやぁ。知らない本がありますねと、結城の春本を手に取り。中身を読んだところ。
「これは!これは素晴らしい本だと!俺は思うたわけですよ!色合い!紙!綴じ!男女の絡む躍動感!どれをとってもすばらしい!」
「だ、そうだよ結城。よかったね」
「お、おう……」
「ですから結城先生!是が非でも!この春本!うちで作らせてはいただけんかと思いまして!」
「えええ」
本気で言ってるのかこのおっさん。たかがいっかいの小間物屋が趣味で書いた本だぞ?
「いやいや。銀次郎さん、だっけ?
確かに、せっかく書いたんだから誰かに見て欲しいなとは思ったけどな。二足も三足も飛び越して、刷ってくれなんざとんと思わないぜ」
遠慮しとくよと、辞退するも。「いやいやいや!」いっそう、あつくるしく迫られた。
「それは芸への冒涜っちゅうやつですよ!先生!これを見ずに死んでいく人間が無念だとは思わんのですか!?」
「そ、そこまで言う?」
「もちろんですとも!」
「うーん……」
そこまで断言されると、ちょっと気味が良いような。小間物屋の主としても悪くないっていうか……。
「まんざらでもないなら頷いておきなよ。結城。なに、君が損するわけでもなし」
「お前が推すとは珍しいな。てっきり、素人の春本なんざ恥さらしもいいところだ辞めておけと言いそうなのによ」
「そう言いたいところだけどね。銀次郎さんじゃないけど、出来は確かに良い本だったから」
「あれ?なんだかんだ読んだの?しかも良かったんだ?武流ってばむっつりスケベだよなー。
いってぇええええ!蹴るこたねぇだろ!」
「うるさい。
ま、とにかく。玄人(くろうと、専門家)がここまで推してくれるんだ。売れなくとも漫遊堂さんほど大きなお店なら金にも困らないだろうし。やってもらったら?」
それに。君があげるばかりじゃないらしいよ。
そう言って、武流がそばにおいてある風呂敷に目配せする。
「そうでしたそうでした!」それを、男がつかんで結城に差し出してくる。なんだこれ?と包みを開けば。
「これはほんの気持ちばかりですがね!どうぞ先のお礼としてお受け取りください!
源内先生の女歌舞伎もの、ひと揃えでございますよ!」
「……あーーー!すげぇ!まじで!?俺これ読んでみたかったんだよ!」
源内先生こと、長名源内(おさなげんない)は、二十年前、美人画(びじんが、美女の絵)で一世を風靡した絵師だ。
版画を主とする浮世絵よりも肉筆画(にくひつが、手書き)を好み、その筆さばきは誰よりも麗しいと持てはやされ、売れに売れている内に三十の若さで没した。
そのため、世に流れた作の数は少なく。今でも、彼の絵を求めて大金を放り投げるものは少なくない。と有名だ。
その、源内の人気絵、しかも揃え五冊が目の前にある。
普段、物欲に駆られない結城とてさすがに唾をのんだ。
「え。い、いいの?これもらっていいの?」
「もちろん!」
諾と言われた瞬間、わき目も振らずに本を開いた。中をじっくりながめて感嘆の声をあげる。
すげぇええ!生きてるうちにこれを読めるなんて思いもしなかった!
「その代わり、先生。なにとぞ、先生の本をうちに預けてはいただけませんか?」
「好きにしてくれ!」
「おおお!おおきに!では早速!うちの彫師(ほりし、版画を掘るひと)にかけあいますんで!」
四十も過ぎた男が、本を抱えてやったーー!と、子供のように喜び竹林堂を飛び出してゆく。それに振り返らず、結城はもくもくと本を読み続けた。
となりでは。
「……さすが番頭。人の乗せ方がうまいな」
武流が何事かをつぶやいたけれど、右から左へ流れていった。
☁
「本当に良かったの?結城」
竹林堂で珍事が起きた、そのまた六日後。
武流と共に赴いた宵の店。もとい、友人が商う「化物四文屋(ばけものしもんや)」で武流に尋ねられた。これで十度目だ。
「良いって言ってるじゃないか。くどいぞ武流」
「だってさ……」
「二人とも、どうかしたの?」
軽くもめているところに、四文屋の主こと友人が、屋台の中から声をかけてくる。
「ああ。千早さん。聞いてくださいよ。それがね……」
千早(ちはや)、と呼ばれた友人は、こくりと頷き耳を立てる。そのとき、被っていた布がはらりとゆれて、彼の美麗な顔立ちが浮き上がった。
ここの主はとても美しい顔立ちをした人で。なぜかそれを布で隠している。その奇妙さが、この店を皆に「化物四文屋」と呼ばせている。
「この前、結城が風鈴を作ったんだけど」
「ああ。僕ももらいましたよ」
そう言って、千早が屋台に吊るした大提灯(だいちょうちん、照明器具)のすぐ隣を指さす。提灯の隣では、風鈴がころころ音をたてていた。
「まったく。結城ってばさ、顔に似合わず繊細なものを作るよね」
「失礼なやつだな」
「褒めてるんだよ。
それで?先生。つづきは?」
先生、と呼ばれた武流が、「ああ、うん。それでですね」話の続きを口にする。
「結城が風鈴を作るついでに、肉筆で春本を作ったんだけど」
「器用なろくでなしだ」
「でしょう?」
「うるせぇなー。
おい千早。酒もう一本だしてくれ」
「はいはい」
「それでね。その春本をうちの店に置いてほしいっていうから、置いてあげたんですけど。
これをね、うちの常連さんが読んで。たまたまその人が大きな版元で働く番頭さんでね。
その人がなにを血迷ったのか、うちで刷らせてくれって、頼み込んできたんですよ」
「すごいじゃないか結城。たまにはろくでもないところが役に立つこともあるんだね」
「うるせぇな!おい千早!つまみもひとつつけてくれ!」
「はいはいちょっとまってね」
「それでね。まあいろいろあって本は刷ることになりまして。
そのとき、結城ってば、その版元さんに長名源内の本をひと揃え、前払いだって言ってもらったんですよ」
「え!?長名源内!?ちょっと結城!それほんとなの!?」
「ほんとだよ」
「すごいじゃないか!小判積んでも買えやしないって有名なのに!」
「そこなんですよ千早さん」
「なんですか先生?」
「その、長名源内の本をね、うちに置いておいてくれって言うんですよ」
「は?ちょっと結城。どういうこと?」
「だから。俺がもらったものだけど、俺んとこみたいな男やもめの長屋に置いておいても、せっかくの本が傷むだろ?
だから、本の商売してる武流のところに置いておいてくれって言ってるんだよ。誰かに貸してやっても良いからって。
ただ、貸す相手は選べよ?なにせ希少本だからな。盗まれる分にはまだいいが、下手してお前がざっくり斬られちまうなんてことになったらおおごとだ」
「……あきれた。そういう問題じゃないでしょ」
「千早さんもそう思います?」
「思わないわけないですよ」
欲があるんだかないんだか。と、同じ言葉で二人がため息をつく。
「うるせぇなー」こちとら、良いものはしかるべき場所にあるべきと思っただけだ。
「それより千早。つまみまだ?」
「ああ、はいはい。ごめんね。もうできたよ」
話ながらも器用に料理を仕上げた千早が、手ずから料理を運んでくれる。膳(ぜん、料理を乗せる台)の上に乗った小鉢の中には。
「おお!南瓜(なんきん、カボチャ)か!」
「うん。ざっくり切って揚げてみたよ」
美味しいうちに召し上がれと勧められ、言われるまでもなく、箸をとって南瓜をひとくち、ほおばる。
時期の南瓜が、油で揚げられほくほく甘い。刻んだ生姜と塩がさっとかけてあるのがたまらなく美味い。
「うまい。酒に合うなぁ」
「わぁ、おいしそう」となりで武流のうなる声が聞こえる。美味いものを見たときは、みな同じ声をあげるものだ。
「千早さん。僕も同じものをください。あと、今日はうどんありますか?」
「ありますよ。先生。今日は変わり種なんですよ。ぜひ召し上がってください」
そう言ってからしばらくして。千早が武流に膳を運んだ。品目は、結城と同じ南瓜揚げとうどんだ。
この時期、梅雨から初夏にかけて雨の具合から風邪をひくことがある。そんなときは、うどんを食って寝れば医者いらずというのが、有名な説だ。
それを医者がやっているものだから、何とも皮肉だ。
「わあ!おいしそう!」
その医者こと武流が、小鉢とうどんを目の前に手をたたく。
「うどんに卵がかかってる!」
「卵をくずひきしてうどんにのせたんですよ」
「梅の香りがしますね」
「いま梅干しを作ってるんですけど、漬けの浅い梅酢をつゆに混ぜてみたんですよ。梅は万病の薬って言うでしょう?うどんにちょうどいいかなって」
「うん。美味しい。すっごく美味しい」
夢中ですする友人の顔を見ていると、「すまん千早。俺もいっぱい」ついつい頼みたくなってしまう。
千早が「はいはい」口元で笑い、追加を作り始める。さなか。
ころんころん、風に紛れて風鈴が鳴ると。
「ああ。良い音だ」
見上げた千早が、楽しそうにつぶやいた。
☁
「先生。もうかりまっか?漫遊堂でございますよ」
銀次郎ふたたびやってきたのは、梅雨もそろそろ明けるころ。
竹林堂ではなく直接結城の長屋へ、ひょこひょこやってきた銀次郎は、ご機嫌な様子で頭を下げた。
「おう。銀次郎さん。いつぞやは良いものをありがとうな」
「なんのなんの。お互い様というやつですよ。
さておき先生。今日はお預かりした本の具合をご報告に参りまして」
銀次郎いわく。結城の本を銀次郎がどれだけ惚れこんでいたとしても。素人が描いた本を持ち込めば店のものが良い顔をしない。
そこで、筆を折って山に隠れたさる高名な絵師と、たまたま縁あって、まだ世に出ていない本を譲りうけることができた。
という筋書きで結城の本を渡したところ、みな大層感銘を受け、結城の本を刷ることに同意してくれた。とのことだ。
「舌先三寸とはこのことだな」
「まあまあ。商いですから。時には根も葉もないところを盛り上げる必要もあるちゅうことですよ」
それで先生の本が出るのでしたらね。俺は本望でございますよ。そう言って、銀次郎はカカと笑う。
「ところで先生。なにか判になるものはお持ちでいらっしゃいます?」
「判?
ああ。刷るときに作者の判(版画を作る際、作者の印をつける)がいるものな。ちょっとまってろ」
そう言って、箪笥の中から遊びで作った判をひとつ取り出し差し出すと、「おおきに」相手がうやうやしく、それを受け取った。
「鐘町って、住んでる町の名前彫っただけの判だけどよ。作者なら自分の号(ごう、ペンネーム)に町名つけるのも珍しくないだろ」
「はい。はい。結構ですよ先生。ありがたく頂戴いたしますんで。
それでですね、先生。このままいけば秋の半ばには刷り上がりそうです。出来上がりましたらいの一番にお見せしますんで、どうぞ楽しみにしていてくださいましね」
「そうか。ありがとう。楽しみにしてるよ」
「あと先生。頂いた本のお代についてですけれどね」
「え?ああ、いいよ。長名源内の春本貰っただろ?あれで釣りが出るよ」
「いいえいけません。あれはほんの気持ちのことでして。先生には別に、きちんとお代を払いますんで」
「いいよ。貰いすぎだ。かえって気が引ける」
「いいえ。こういった白黒はきっちりつけんと、漫遊堂の名がすたります」
いいよいらないよ。いえいえ貰っていただきます。
同じようなやりとりを何回も繰り返し、結局結城が根負けして、「こんなにいらねぇ」という金の証文を受け取る羽目になってしまった。
「それでは先生。これにてお暇させていただきます」
次にお会いするときは本を持参してまいりましょう。そう言って、銀次郎は頭を下げつつ帰って行った。それを見届けてから……どっと、肩と腰の力を抜く。
ああつかれた。慣れないことはするもんじゃないな。肩がこる。
よし。こういう時は遊ぶに限る。
暑気祓いもかねてな。
ちょうど金ももらったしな。
風鈴もできたし。仕事もこれで充分だろう。
というわけで、結城は陽の高いうちから地獄(じごく、もぐりの風俗)へ向かい、金がなくなる分だけさんざんっぱら遊びつくした。
――――まぶたにさす陽ざしがいっそう濃くなった日のこと。
「しーじみー、しーじみー」
「はーるもーめしーろもーめあーおびょーうたーん、あーかにきーいろにあらよこさー」
早朝から働くしじみ売りの棒てふり(ぼてふり、棒につるした桶をかついで商いするひと)に混じって、長屋の子供の歌声が聞こえてくる。
あれは「色神(いろがみ)」の歌だ。
色神は、春から秋にかけて色をかえる草木を神になぞらえた歌で、この時期によく歌われる。
そういえば、中川座(なかがわざ、作中の江戸三座、政府から認められた劇場、役者は男しかいない)が夏の興行(こうぎょう、芝居)に色神を用いたらしい。
そこの役者で、立女形(たておやま、芝居小屋で一番偉い女役の役者)をしている友人の顔をふと思い出す。
彼とはしばらく会っていない。彼のための風鈴も作ったのに、色々あって渡せずじまいだ。
届けるついでに、顔を見に行ってみるか。
立ち上がると、適当に身支度して長屋を出た。向かうのは鐘町のほど近くにある芝居町(しばいちょう、芝居小屋のあつまる町のこと)だ。
芝居町の広小路(ひろこうじ、火事除けのために作られた広い路、通り)は、相変わらず人人人で込み合っていた。
広小路の真中に座る中川座は、役者看板に役者提灯、役者幟(のぼり、役者の名前が書いてある)を立て、大盛況だ。
一番安い木戸銭(きどせん、チケット代)を払って中に入ると、芝居を途中から見物する。
陽が暮れるころ。
帰るか遊ぶか迷う客の合間をぬって、結城は役者の控え場所に向かった。
ちょうど控え場所の手前で止まり、舞台じまいに忙しい裏方の一人を捕まえ、「おう。日向(ひなた)ってやつしらねぇか?」愛想よく聞くと、怪訝そうににらまれながらも、「おい。日向どこにいるか知ってるか?」呼んでもらった。
しばらくして。
「はいはい。何か御用ですか?」
「こいつがお前に用があるとよ」
「え?俺に?
って、ああなんだ!ゆうさんじゃないですか!」
「よー日向。ひさしぶりー」
お互いきさくに手をふり、肩をたたきあう。
「ゆうさんがしばらく来ないんで、姐さんがさびしがってましたよー!」
「おう。悪い悪い。今日は朱璃の顔見に来たんだよ。
通してもらえるか?」
「もちろんですとも!さあさあ!おあがりください!」
日向こと、中川座の立女形、鐘石朱璃(かねいしじゅり)の愛弟子に連れられ、三階建ての控え部屋へ進む。
役者の位は、下っ端から「稲荷町(いなりまち、セリフもない脇役)」「中通り(ちゅうどおり、セリフのすくない脇役)」「相中(あいちゅう、そこそこの役者)」「名題(なだい、名俳優、名女優)」に振り分けられる。
控え部屋はそれぞれ、三階を名題下(なだいした、名題より下の身分の役者をさす)の立役(たてやく、男役)が、二階を名題下の女方(おんながた、女役)が利用している。名題下に個室はなく、全員が大部屋控えだ。
これが名題ともなれば、一階に自分の部屋が作られ、そこで衣装や化粧のこしらえをする。名題、それも立女形ともなればその待遇は破格と言っても良い。世にいう千両役者というものだ。
その、破格の部屋を持つ友人の部屋。もとい、鐘石朱璃の名が染め上げられた暖簾を潜って、「おーい朱璃。おつかれさん」名うての役者にこれまたきさくに話しかけると。一瞬、怪訝そうな顔で振り返った彼が、一転。「あらー!ゆうさん!」楽し気な笑みを見せた。
「やだもー!きてくれてたの?言ってくれれば上桟敷(かみさじき、チケット代の高い良い席)用意してあげたのに!」
「いいよいいよ。こういうのはふらっと来て立ち見するくらいが丁度良いんだって。
それよか朱璃、今日久しぶりに、どう?」
くいっと、猪口をあげるしぐさを見せると、「いくいく!」相手の目が輝いた。
「ちょっと日向ー!アタシ化粧落としたらもう上がるから、あと片付けといてちょうだい!」
「分かりましたー!」
「ゆうさん。ちょっと待っててね。内風呂(うちぶろ、風呂)入ってすぐに化粧落としてくるから」
そう言って、いそいそ部屋から出ていく朱璃の背中を眺める。
芝居小屋は、べったりと塗り込む白粉(おしろい)を落とすため風呂に入るのだが、市中(しちゅう、町中)の風呂屋(大浴場)で役者が化粧を落とすと、湯が濁ると不評が飛んでくる。
そのため、お上(おかみ、政府)に火事除けのため禁止されている内風呂を、芝居小屋は特別許可されていると聞く。
朱璃いわく。小屋の内風呂は序列順で、まず、名題役者が初めに入り、最後に稲荷町が湯を使う。
湯の最後といえば、白粉の交じり過ぎで白い泥のようになり、その湯に稲荷町は浸かるのだと聞いた日には、ぞぞっときたものだ。
風呂から出た朱璃を伴い、夜空の下、朱璃の勧める芝居茶屋(しばいちゃや、芝居町で営業している飲食店)に入る。二階に通されるなり、「俺は役者になれんわな」その、役者を目の前にして言った。
「あらどうして?ゆうさんなら立役で良いところまで行けそうよ?」
「いや。芸を磨くのは楽しそうだがな。役者はそれだけでは生きていけないだろう?」
暗に、役者世界は恐ろしいといえば、にっこり、朱璃が微笑む。
「そんなの。なんとでもなるわよ」
「おおこわ。希代の鐘石朱璃が言うと洒落になんねぇ」
「ほほほ。まあまあ。もう一献どうぞ?」
女方さながら、しなやかな手つきで酌をしてくれる。この仕草だけ見ていると女を前にしているようだ。
「それよりゆうさん。最近はどうなの?武流先生とか、鐘屋さんとか、明里ちゃんとか。みんな元気?」
「おう。梅雨と初夏にもめげず、みんなえっちら働いてるぜー。
おっと。そうだ。梅雨といえば……」今日、ここにきたもう一つの目的を思い出す。
「おい朱璃。お前風鈴いるか?」
「え?風鈴?」
きょとんと眼を丸くした朱璃の前に、袂(たもと)から取り出した風鈴を見せる。
物珍しそうにそれを受け取った朱璃が、目の上まで風鈴を掲げて、から、うっとり、相好をくずした。
「綺麗。菖蒲の柄がつけてあるのね。どうしたのこれ?」
「俺が作ったんだよ」
「まあ。器用ですこと」
「お前、陶衛門(とうえもん、一等星二巻参照)だった時に、絵姿(えすがた、ポスターやイラストカード)でよく、しなやかで藍色の着物が似合う様が菖蒲のようだって言われてただろ?
ちなんでみたよ」
「あら。あら。知っててくれたの?うれしいわね。
そう。陶衛門だった時にね。菖蒲の見立てから、勝負にも強いと言われていてねえ。だからアタシは、菖蒲の花が一等すきなのよ」
今でこそ鐘石朱璃を名乗る彼だが、少しばかり前までは中條陶衛門(なかしのとうえもん、一等星二巻参照)という名前だった。
役者というのは、己の立場が上に上がるたび位の高い名前へ移るもので。
今、名乗っている鐘石朱璃は立女形を約束された名前。つまり、彼にとって最高の位を冠している。
「青銅(せいどう)でもびいどろでもなくて、陶器の風鈴なんて初めて見たわ。どちらかと言えば風鎮(ふうちん、風を抑えるための重し)のようね。でも、独特の言い音が出るわ」
「市中じゃわりと人気のある風鈴なんだ。値段も手ごろだしな。
お前さんみたいに、芝居町の天下人ともなればお高い風鈴しか献上されないだろうから、物珍しいかと思ってひとつ作ってみたよ」
「ありがとう。うれしいわ。
いいわねぇ、アタシのために作ってくれた風鈴だなんて。
いえね?ゆうさんの言う通り、夏ともなれば、贔屓のお客さんたちからたくさんの贈り物のひとつとして、風鈴を毎年貰うものよ。
でも、やれどこの大店のものだ、どれそこの有名な店だの。綺麗だし良い音は鳴るんだけど、なんていうのか。アタシに贈ってくれたっていう個性がないのよね。
その点。ゆうさんの風鈴はいいわぁ。親しみがあって。
帰ったらすぐに飾るわ。本当にありがとう」
「よせよ。そこまで褒められると金払わなきゃなんねぇだろ」
「恥ずかしがらなくてもいいのに。ふふ。ゆうさん。猪口が空よ。おかわりどうぞ」
「おう。悪いな」
朱璃が再び酒をつぎ足し。「そうそう」徳利を戻したところで手をたたく。
「風鈴のお礼ってわけじゃぁないんだけど。ゆうさん。良いもの見せてあげる」
「お?なんだ?」
「あのね。うちの立作者(たてさくしゃ、芝居小屋で芝居用の台本を書くひと)の先生が、贔屓にしてる版元から、まだ世に出ていない新作の本を、贔屓だから特別だって、見せてもらったらしいの。
で、それがとても良かったもんだから、金子(きんす、お金)をはずんで分けてもらったらしいのね。
それで、先生が名題たちに、今後の芸の肥やしにするようにって、見せてくれたんだけど。
これがね。良い春本だったのよー!」
こっそり持ってきちゃったと、朱璃が娘のようにはしゃぎながら、例の春本とやらを結城に差し出した。
「へえ。中川座がもろ手をあげて喜ぶ春本なんざ、すげぇ、……」
な。と、言い切る前に口と手が止まる。
「どうかしたの?」結城が黙り込んだのを見て、朱璃が不思議そうに首を傾げる。
「ああ、いや」あいまいに笑って見せたが。
「……ええと、これ」
「うん?」
これは。
俺の描いた春本じゃないか……?
☁
木戸番(きどばん、町の至るところにある警備用の門(木戸、きど)を管理しているひと、警備員)に銭をつかませ長屋に戻ると。障子戸を少しだけ開けて月明りを入れ込む。
わずかな明るさのそばであぐらをかき、じっと、あごに手をあて考えた。
どういうことだ。
以前。銀次郎がここに来た時、本が刷り上がるのは秋の半ばだと言っていた。今頃に刷り上がるのでは話が違う。
しかも、朱璃が持っていたあの本。よく見ると、「陽正」という作者印が押されていた。結城が渡した判は鐘町のはずだ。
一通り考えたあと、たどり着いたのは。
――――やられたか。
こちとら小さな小間物屋だ。大店に物を持っていかれて、あとは「存じません」と言われてしまえば手は出せない。
大店が素人に暴挙を振る理由がないと油断していたが、朱璃の反応を見る限り、商才はあちらにあったとしか言いようがない。
俺は売れる本を知らずに描いて、だまされた挙句あげちまったわけか。
癪に障る話だが。
「ふー」
めんどくさくて投げ出した。
まあいい。どうせ趣味で描いた本だ。その後がどうなっても構わないな。
長名源内だってもらってるんだ。むしろ得している。
釈然としない気持ちだけは、まあ、もらいすぎた前金のつりだとでも思っておこう。
障子戸をしめて、夜具を引っ張り、ごろんと寝転がる。
寝て起きてしまえば。悪い気ともおさらばだ。
☁
銀次郎が長屋に飛び込んで来たのは、例の本を朱璃に見せてもらった次の日のこと。
「先生!起きてらっしゃいますか!」
「うえ!?」早朝。突然の大声に起こされ、声がひっくり返っているところに、「先生!先生大変ですよ!」銀次郎が夜具越しに背を叩いてくる。
「お、起きる!起きるから銀次郎さん!」
高ぶる銀次郎をなだめつつ、夜具を適当に片付け銀次郎を板敷に座らせる。その表情は真っ白で、夏だというのに血の気がない。
叫んだかと思えば、黙り込んで膝にこぶしを作った相手に合わせて、じっと、結城も口を閉ざしていると。やがて。
「先生からお預かりしていた本なのですが。……盗られました」
重くるしい声で言った。
「誰に?」
「驚かれないんですか?」
「うん。ちょっとな」
昨日あった事を話すと、銀次郎の顔が白を越して青ざめる。
「芝居町にあの本が……。ああ、えらいこっちゃ」
「俺はてっきり、あんたに騙されて本を持っていかれたと思ってたんだが……」
「そんなわけあらしません!」
唾を飛ばして責めよられ、思わず傾ぐ。
「版元が!絵師や戯作者からの信を裏切ってどないんすんですか!俺はたとえその方が儲かるとしても!そんな真似は死んでもやりませんわ!」
「そ、そうか。疑って悪かった」
謝ると、銀次郎ははっと勢いを止め、「すんません……」肩と顔を落とした。
「俺が悪いのに。ほんとにしょうもない。
けど。けど先生。本当です。俺は騙そうとしたわけじゃないんです。今となってはただの言い訳。こうなってしまっては俺の非は許されようもないんですが。話だけでもきいてはくれませんか」
そう言って、青い顔を上げた銀次郎いわく。
あの本は、漫遊堂の中で盗まれたのだという。
「ようするに、作者変えです。
あの本に作者の判がなく。俺が目くらましのため、隠居したさる絵師が描いたと、先生を隠したばかりに、それを逆手にとって盗まれたんです」
此度の事件は、元をたどれば漫遊堂のお店(おたな)割れが原因だという。
漫遊堂は先代の主が一代で、商いをここまで大きくしてきたのだが。その先代が、前年に流行り病で亡くなってしまったらしい。
漫遊堂には今、病没した主に長年使えたお店者(おたなもの、従業員)と、その息子である若旦那が引き入れたお店者がいて、やりくりしていたわけだが。
「お恥ずかしい話。これがまったく上手くいっとらんくて」
先代に仕えたものは若旦那のやり方が気に入らない。
若旦那びいきの若い衆は古参のやり方が気に入らない。
「よくある話だな」
「面目もない……」
銀次郎は上方産まれながら、先代に見初められ江戸に下り、最も漫遊堂に長く使えた最古参。その忠誠もひとしおで。
主が急な病で没した後も、傾きかけた漫遊堂の音頭をとって、若旦那のかじ取りが落ち着くまで働きに働いたのはほかでもない銀次郎だったらしい。
だが、落ち着いたまではよかったものの。前述通り。店は考え方の違いに割れてしまい。
「実を言えばですね。うちの身代(しんだい、貯蓄、資産)。あまりよくなかったんですわ」
一代で財を気づいた先代の目利きを失った漫遊堂は、柱を失ったことでそれまでの仕入れと捌きが鈍るようになり。
加えて、父親を目の上のたんこぶに感じていた若旦那は、自分が主になったとたん廓(くるわ、女郎屋、女性と性的に遊ぶところ)に通いだしたという。
「うちがね。そこそこ名の売れた店だったとしても、毎日毎日五十両超えるような大金、主にばらまかれたらひとたまりもないんですわ」
「そりゃそうだ……」馬鹿息子とはこのことだな。
「けど。先代の残した大事な店と息子ですよ。俺はね。涙も歯もくいしばって代替わりの助けをやってきたわけで。そりゃもう、この歳で大番頭になって、優々な生き方させて欲しいくらいのところに、ええ、もう、恥をしのんでいろいろなことしましたよ。
いろんな絵師一門(絵で著名な先生とその弟子)にも戯作者(げさくしゃ、作家)にもお会いして、土下座なりなんなりさせていただきましたよ。書いてくださいと。
それで、ああようやく、一山きそうな本を見つけたと思ったら」
それを見た若旦那が本を盗み、勝手に自分が贔屓にしている彫師と摺師(すりし、出来た版画に色をつけて紙にするひと)にまわして、本を作ってしまったというわけらしい。
「秋までかかるんじゃなかったのか?」
「いえね。正直、出来や風合い気にしなければ半月でも刷れたりするものですよ。けどね先生。俺はね。秋までかけて、あの本の出来を世に問いたかった。これは店のためでもあり、俺の気持ちの在り方でもあったんですわ。
それを。あの馬鹿息子が身勝手に動きよって」
銀次郎が直接、若旦那に直談判した際、その若旦那とやらはこう言い放ったらしい。
「番頭風情がやかましい」と。
「堪忍袋の緒がぶち切れましたよ!
俺はね!そういわれた瞬間、先代が大事にしていた小刀(こがたな)ひとつ持って店を飛び出したんです!
俺は情けない!
あんな男のために、俺が大事にしてきたものすべてくれてやった自分が情けない!ですから先生!」
憤っていた銀次郎が、すうっと収まるや否や。自分の懐から小ぶりの刀を取り出し。
「この度は、自分の落とし前をつけに参りました。どうぞこれで、先生の本を無碍にしてしまったことの詫びとして承知していただければ……!」
自分に刺そうとするので。「まてまてまて!」慌てて相手の手を叩き、刀を取り落としたところで上から抑え込んだ。
「先生!離してください!」
「死ぬこたねぇだろ!大体!死んでもらうほどべつになんとも思ってねぇよ!?」
「俺の気がすまんのやーー!」
「おちつけーーー!」
小半刻(こはんとき、30分)ほど、わあわあばたばたして。
「ちょいとゆうさん!朝っぱらからうるさいよ!」近所の女房が叱り飛ばしに来たところでようやく、お互いぐったりとうなだれる。銀次郎に至っては、板敷にふせて号泣している始末。
「おい。銀次郎さん……あんたの気持ちは分かったけど、見ての通り俺は気にしてねぇから。早まらずにもっとよく考えろ。
あんた、家族はいねぇのか?」
「……十三の娘が、ひとりおります」
「そうか。そんな良い盛りの娘をひとり残して死んじまうなよ。かわいそうだろ。
それに、死んじまったらそれこそ悔しいとおもわねぇか」
「うぅぅうう……っ」
「いまは、ほら、ひでぇこと言われて気が荒れてんだよ。ちょっと酒飲んで美味いもん食えば落ち着くから。な?付き合ってやるからちょっとこい」
そう言って、泣き続ける銀次郎を無理やり立たせると、引きずる形で長屋を出る。
向かったのは鐘町で唯一の酒屋が商いしている料理屋だ。町にちなんで「鐘屋」の屋号(やごう、店の名前)を掲げるこの店は、とある経緯から酒屋のひとり娘が主をしていて、そこに化物四文屋こと、千早が昼に出仕(しゅっし、通いの仕事)して飯を作っている。
「おーい。明里(あかり)、ちょっとごめんよー」断りを入れて中に入ると。
「はーい?って、なーんだ結城じゃない。もー。お店まだ開いてないんだから」
ぶつくさ文句を言いつつ、鐘屋の娘主こと明里が奥から出てくる。
明里は結城を一瞥したあと、「あれ?その人どうしたの?」すぐ、銀次郎に気づいて首を傾げた。
「やだ。ちょっと。泣いてるじゃない。なにかあったの?」
「うん。まあ。話せば長くなるんだけどよ……」
とりあえず、床几(しょうぎ、大きなイス)に銀次郎を座らせ、明里にいきさつを話せば。
「なにそれ!」とたん、娘の怒号が響き渡った。
「長く仕えてくれた人のこと、なんだと思ってるのよ!うちだって酒屋のほうに番頭さんがいるけど、そんな扱い絶対しないわ!」
「だとよ。銀次郎さん」
「おおきに。娘さん……」
「もう!銀次郎さんは悪くないんだからそんな顔しないで!
よーし分かった。ようするに、二人ともうちに憂さ晴らしにきたのね?そういう事なら今日は店開けずに、銀次郎さんのためにあれこれ出してあげる!
ってことで、よろしくねー千早!」
奥で仕込みをしていたであろう千早が、いつの間にかこちらに来て成り行きを見守っていた。
主に命じられると。「えーと、うん。分かった」聞き分けよく頷いて、「明日の品目考え直さないとな……」つぶやきながら再び奥へ戻っていった。
明里も一旦奥へ入ると。
「さあさあ!銀次郎さん!のみましょう!」両手に大きな徳利を持って表に戻ってくる。床几にどんどん猪口と徳利を置いて、勝手きままに酒を注ぐと、「ほら!結城も付き合ってあげなさい!」結城にも猪口を押し付けてきた。
「えらいすんませんなぁ、こんなことしてもらって」
「なーに。つらいときはお互い様だ。飲もうぜ銀次郎さん」
二人でささやかに乾杯し、猪口を傾けていると。「つまみ出来たよ」千早が膳を持ってきてくれる。
「お!待ってました!
銀次郎さん。こいつの料理ね、美味いんだよ」
「へえ」
「千早。今日のつまみなに?」
「まずは鯵(あじ)の天ぷらだよ。唐辛子を炒ってからすって、混ぜた塩につけて食べてね」
「うまそう!」
「出入りの乾物屋に素麺(そうめん)も頂いてるんだ。ほんとはまかないだけで出そうと思ったんだけど、特別に出してあげるね。
素麺はね。つゆだけで食べてもおいしいんだけど、ごまと刻んだ紫蘇と胡瓜をたっぷりつゆにいれて、すこし油を垂らすとおいしいんだよ」
「よだれが出てきました」
「酒に素麺とか最高だな」
美味い肴(さかな)が出てくると、自然と雰囲気もやわらぎ。「いやぁ、先生のいうとおりやな」だんだん、銀次郎の気も華やいでいく。
「なにも死ぬこたぁないなぁ。こんなにうまい酒飲めるのは生きてるときだけやもんなぁ」
「そうだぞそうだぞ。いきてりゃなんとかなるって。つらいのは浮世もあの世もいっしょなんだからよ。どうせなら浮世でふんばってみるのがひとってもんだろ」
「その通りやな。よーし!なんや元気が湧いてきましたよ!」
「そのちょうしそのちょうし!おーい!酒もうないよー!」
「はーい。ちょっとまってねー」
鐘屋の好意で、その日一日は飲んだり食べたり寝たりを繰り返し。
宵の刻。
「私と千早は帰るからね。ふたりとも風邪ひくんじゃないわよー」
主と料理人が店を出ていく気配を頭上に浴びながら、結城と銀次郎は床几の上で眠りこけて。
次の日の朝。ふと目を覚ますと。
「先生。えらいお世話になりました。鐘屋の皆さんにも、どうぞよろしゅうお伝えください」
あれだけ騒いでいたのに、いつの間にかきっちり着物を直した銀次郎が結城のそばに立っていた。
ひとつ、綺麗にお辞儀をすると。銀次郎は戸を開け鐘屋を後にした。
☁
その日の昼過ぎ。竹林堂に赴き、武流に事の顛末を話すと。
「作者のすげ替えか……」自分で入れた茶を口に含みながら、武流が神妙そうにつぶやく。
「まさか漫遊堂さんのところでそんなことが起きるなんてね。あすこの元の主人には僕もお会いしたことがあるけど、実直で人望厚い人だったよ。
けど、その息子さんがそうなるとは限らない。代が変わるっていうのは、時として魔物が住み着くものだね。結城」
「まあ。いう通りだわな。こればっかりはしょうがねぇけど」
「銀次郎さん。これからどうするのかな」
「自死しないことを願うばかりだ。生きてりゃなんとでもなる」
「そうだね。その通りだ。
あ、そうだ結城。銀次郎さん、今働いていないんだよね?銀次郎さんがお金に困っているようだったらあの本返してあげたらどう?結城さえ良ければの話だけど」
「長名源内か。そりゃあいいな。質にでも入れればそれなりの金子になるだろうし」
会話に合間をはさんで、もらった茶を飲み干していると。「すみません!」突然、大きな声が飛び込んできた。何事だと振り返れば。
「結城さんはこちらですか!?」上方なまりの娘がひとり、息を上げつつ框にかけこんできた。
「お、おう。結城は俺だけど?」たじろぎながらも答えると。「ああ!結城さん!」ひしと抱き着かれた。
「おおきに!おおきに結城さん!ほんとおおきに!」
「ちょ、待て。娘さん。あんた誰だ。おおきにってなんのことだ?」
「うちの!うちの父親がえらい迷惑かけて!それなのに優しくしてもろうたみたいで!」
「……あ、まさか、銀次郎さんの娘さん?」途切れとぎれの言葉から、武流が相手の素性を読むと、「はい!」娘が大きくうなずいた。
「うちは、銀次郎の娘の小毬(こまり)といいます。
事情は全部、父親から聞きました。結城さんにけじめつけるために伺ったのに、かえって励まされたって、父親がうれしそうに泣いてまして。
もう、もう。ほんとおおきに。昨日の朝。お店から持ってきたっていう刀といっしょに父親がいなくなったのを見たときは、肝がつぶれまして。
ずっとずっと探してたのに見つからなくって。そしたら、今日の朝ひょっこり帰ってきて、うちに結城さんのこと話してくれたんですよ。もう、いてもたってもいられなくって」
銀次郎の娘こと小毬は、矢継ぎ早に話す途中、うっと泣き出し、袖で顔をおおった。娘の涙にどうしたものかと、出した手が宙に浮かぶ。
「ひ、ひどい話だったんですよぉ。ほんに、うちの父ちゃんが、ずっとずっと長く奉公(ほうこう、お勤め)させてもらってた店で、まだ、父ちゃんと死んだ母ちゃんが上方にいたときから、お世話になってたんですよ。それを、それを。あんまりな話です。
父ちゃん、ずっとがんばってたのに。お店かたむかんようにって、がんばってたのに。でも、相手は若さんでも主人だから逆らえなくて。
お店飛び出した時の父ちゃん、泣いてましてん。顔真っ青になって震えてましてん。だから、か、刀といっしょにいなくなった時は、と、父ちゃんが死んじゃうじゃないかって……うちぃ……っ、おおきに、おおきに結城さん……!」
板敷に頭をこすりつけるので「分かった。分かったからよせ。娘に頭下げられる趣味はねぇよ」今度こそ手を伸ばし、その肩をつかんで顔を上げさせた。どんぐりのような瞳がきらりと光る、愛らしい娘だ。
「とりあえず、お茶でも飲んで落ち着いて」武流がお茶を注ぎなおして小毬の目の前に置くと、「おおきにぃ……」えずき
ながらも茶を飲んだ。
やがて、しっかり落ち着くと。「急にすんませんでした。また、父親と改めてお伺いいたします」しっかり頭を下げて、竹林堂を後にした。
それを二人で見届け。不意に。
「勧善懲悪という言葉があるんだけど」武流がつぶやいた。
「あ?なに?かんぜん?」
「かんぜんちょうあく。善事をことほぎ悪事をこらす。っていう意味だよ。ようするにさ」
そんな栄転がきっとあるさと。武流が笑って言う。
結城も笑って。「そうだといいな」と答えておいた。
続きは本紙でお楽しみ下さい。
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